正岡容。早熟の騏驪児の晩年。寄席と芸人の世間に行き暮れる。

 あだ名は「ライオン」。といっても、別にアル・パチーノじゃない。

 いや、あの『スケアクロウ』のアル・パチーノも、むくつけきメリケン男の地金に塀の中でしんにゅうがかかったジーン・ハックマンを相棒にした珍道中。ライオネルなんて女みてえな名前だ、というだけで無理やりつけられた「ライオン」だった。

 こっちの「ライオン」はもっとスチャラカだ。女学校の三年生にいたライオン歯磨の娘に岡惚れしてるのが仲間に知れわたってのこと。昼休みに抜け出して、電報で付け文までした。ただし、こちらは小学校の六年坊主。待てよ、やはり「ライオン」だけのことはあったのか。

 正岡容。「いるる」と読ませる。親はそんな読ませ方をさせるつもりはなかったらしいのだが、本人は頑なに「いるる」と言い、死ぬまでそれで通した。

 明治三七年十二月二十日、江戸時代は下谷練塀町と呼ばれた神田区東松下町に生まれる。父は平井成という軍医だったが、故あって養子に出されて正岡を名乗る。小学校は、山手の坊っちゃん嬢ちゃんの多い九段の精華。下町育ちの屈折はなお研ぎ澄まされた。長男でありながら養子に出した生みの親への反発は凝り固まり、終生許すことはなかった。「ライオン」はその頃のことだ。

 早くから江戸趣味に走った。京伝や種彦や春水を読み、落語を好んだ。一方、アポリネールコクトーを熱っぽく論じもした。生家に残った弟の功はさらに輪をかけた天才肌で、その詩は日夏耿之介を激賞させたが、左翼運動に走り、逮捕された時の拷問がもとで若くして死んだ。

 残った兄も文学の道を歩いた。詩を書き、小説をつづった。早熟の才能は、折からの大正モダニズムの上げ潮に、流星のように文壇に躍り出た。初期の作品「ルナパークの夜」は芥川龍之介に注目された。横光利一川端康成などと並べられる、まさに当時の「新人類」だった。

 それが震災以降、みるみる苦悩を深め、色褪せてゆく。荷風にあこがれ、芸人になろうとし、自ら落語家に弟子入りして高座に上がった。暮らしも荒れた。酒に溺れ、酔っては泣き、短い間に何人もの女たちと一緒になり、別れ、あちこちを転々とした。女をこわしてしまう、とささやかれた。精の強い家系というのは確かにある。だが、彼の七転八倒の理由はもちろんそれだけではない。

 ひたすら寄席と芸人を素材にした作品を書いた。耽美的だが、確かに彼独特の世界だった。まだ巷の寄席好きだった頃の桂米朝や、小沢昭一や、大西信行の師匠だった。戦後は放送台本や講談の脚本なども手がけたが、かつての騏驪児の溌溂は戻らなかった。遠いものを見る眼をして、自分の中の幻にだけ焦点を合わせて世を過ごしていった。