おねえちゃん、のこと

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 ある駄犬の話をする。

 千葉の小林というところに牧場がある。印旛沼のさらに奥、利根川との間に広がる小高い北総台地の一部、成田線の駅が近いと言えば近いけれども、つまりは陸の孤島状態、夏は都内などよりいくらかしのぎやすいが、その分冬には霜がびっしりおりるという土地だ。

 この小林牧場、大井競馬のトレーニングセンターになっている。競馬場内の厩舎では馬房が足りない新たに免許をとった若い調教師などは、こちらの牧場に厩舎を持つことになることが多いし、その他、主催者が買い付けて希望する馬主に割り当てる抽せん馬の育成もここでやっていれば、余裕があれば休養馬を預かることもある。人間サマはともかく、馬にとっては夏は涼しいし、水もいいしで、馬場の狭いことや調教をつける手練れの騎手や助手の少ないこと、あるいは競馬に使うときの輸送のリスクなどを差し引きしても、この小林の厩舎は大井の競馬場の厩舎と比べて、大きいレースはとるような馬は育ちにくいけれども平均すれば勝ち鞍の数は多い、というのが常識になっている。

 ある冬の朝、この牧場の門の前に二匹の犬が捨てられていた。厩舎から馬場の方へ調教のために馬を出しに行く若い衆たちがふと馬の上から見下ろすと、段ボールに入ったチンケな仔犬が二匹、ひっつくようにしてこっちを見ていたのだという。始末に困った猫や犬をこの牧場界隈に持ってきては放してゆくのは別に珍しいことでもないから、ああ、誰かまた捨ててったな、と思って、それほど気にもとめずにいた。そうやってやってきた猫や犬がいくつもそこらを駆け回ってもいる。力があればこのあたりで勝手に生きてゆくだろう。でなければ、どこかで野垂れ死ぬ、それだけのことだ。

 犬は雄と雌が一匹ずつだった。どこにでもいる日本犬の雑種だった。昼間はそこら中を走り回り、干した寝藁の山で眠る。夜は馬房に入り込むか、運が良ければ誰かの部屋に入れてもらえる。えさも、気の向いた若い衆が食べ残しを放り投げてくれる分で、命をつなぐには十分だった。

 牧場にひとりの騎手がいた。名前を、仮に箱崎としておこう。減量のために利尿剤をやりすぎて身体をこわし、競馬場をしくじってこの牧場の厩舎へやってきていたが、騎手の少ないこの牧場では貴重だった。鮫洲の生まれで親父は港湾浚渫工事の請負屋だった。小さい頃から、ボクサーになるか、それがダメなら騎手になろうと思っていたという。騎手学校では乗馬の才能を認められた。とりわけ障害などはうまかったらしい。だが、いざ免許を取って競馬に乗るようになると人の良さ、気の弱さが災いして、なかなか成績は伸びなかった。加えて、落馬が多かった。けがと失意とが彼を酒に走らせた。孤独だった。

 その箱崎が、犬をかわいがった。夜は必ず厩舎の隅の自分の部屋に入れてやるようになった。

 名前をつけるわけではないが、ただ、おねえちゃんの方、弟の方、と呼んでいた。もちろん、おそらくは同じひと腹、姉も弟もないのだが、どこか雄をかばうそぶりを見せる雌の方を、誰もが姉だと勝手に思っていた。かわいがる分、なつくようにもなる。午後の乗り運動などでも、箱崎のまたがる馬のまわりをついて回るようにもなった。寝藁の小便臭かった身体の毛に、競馬場育ちの彼の安物のコロンの匂いがしみつくようになった。

「なんだ、この犬、箱崎の匂いがするぜ」

 毎晩二匹を布団に入れて抱いて寝ている彼は、仲間の言葉に照れくさそうに笑っていた。

 ある日、箱崎は調教師に呼ばれた。あんな犬がちょろちょろしていたんでは馬が驚いて何するかわからない。そこらの野良ならばまだしも、厩舎で飼うのはまずい。即座に何とか始末しろ。でなければ、俺が保健所に持ってくぞ。

 彼は困った。いや、彼だけではない、若い衆みんながどうしようと相談した。誰かに引き取ってもらうのがいいだろう。牧場の入り口に立つ警備員のひとりが、弟の方を引き取ることになった。姉の方は、雌ということで引き取り手が見つからない。いよいよ保健所行きか、ということになった時、箱崎が僕に言った。「ハカセ、何とかしてやってよ」

 当時、わが家には十五歳になるダックスフントが老衰で死にかかっていた。家では飼えないけれども、誰か別の引き取り手を捜すことくらいならば、と、ひとまず預かることにした。所沢まで三時間あまり、車の後部座席にきちんと横座り、彼女は僕の家にやってきた。老いたダックスの気持ちを慮って玄関先につないでいたが、やはり気をつかったのか、ダックスの方はそれから一週間ぐらいして大往生した。

 結局、彼女の引き取り手は見つからず、そのままわが家に居すわることになった。いずれどこかへもらわれて行く犬だから、と名前もつけず、牧場での慣行にしたがって「おねえちゃん」と呼んでいたのが、とうとう彼女の正式の名前になった。「大月さんちのおねえちゃん」と言うと、近所ではちょっとした顔である。形は柴犬系でも、大きさは中型犬くらいになっているからちょっと見はおっかないのだが、とにかくほえない、おとなしい、というので有名なのだから、番犬としてはあまり威張れない。ただ、牧場育ちのせいか、どんなに真冬でも全く寒がるということはない。平気で土の上で寝ているのにはあきれる。

 彼女を手放してすぐ、箱崎の方は失踪した。どこかの牧場に流れついた、ということを聞いたけれども、またすぐそこもしくじって、今ではどこでどうしているか、いずれ馬のそばでしか生きられないはずだけれども、あれから七年、口のまわりが少し白くなり始めた「おねえちゃん」を会わせてやりたい、と思うことがある。警備員に引き取られた弟の方の消息も、その後知らない。

*1:『ペットへの感謝状』(現代書館) 所収原稿