専門書市場の衰退

 本が売れない、という話を聞く。別に珍しくもねぇや、と片づけるのは簡単だが、しかしそれでもやはり気にかかる。

 もちろん、本と言ってもいろいろある。さまざまな情報誌からゲームマニュアル、サギすれすれの精神世界モノから毛つき写真集に至るまで、商品として売れている本はいくらでもあるのだろうが、売れない、と嘆かれているのは、わざわざ断わるまでもない、いわゆる「堅い本」と呼ばれる代物のことだ。

 ある学生がこんなことを言っていた。大学も三年になってゼミに入った。先生や先輩から運営のしかたを説明され、テキストも買い、章ごとに割り振りをされて報告予定の日も割り当てられた。そのように本を読んでゆくことの意味もわかるし、それは経験としても確かに悪くはない。けれども、テキストの目次に麗々しく並ぶ「社会の概念について」などという、少なくとも自分の日常を律している言葉と関わりの薄い言葉に対する違和感はどうしてもある。その違和感を、どんな方法でか、自分の中でいきなり棚上げできる都合の良い才能のある人間だけが、こういうありようになじんでゆくんだろう、と。そして、先生の覚えめでたく大学院か何かに残ったりしてゆくんだろう、と。そして、そのように自分の〈いま・ここ〉と関係ない言葉を扱わねばならないことに苦しまない人間を優等生と言うのだろう、と。

 別に外国語でもなければ古文書の話でもない。れっきとした日本語で書かれた、ごく普通の「堅い本」のことだ。そのような言葉に立ち向かう時の距離感というのは常にあったことなのだろう。しかし、それはまたこれまで「堅い本」とつきあってきた人々の感覚とはまた違うズレをはらんだものになっているのかも知れない、と僕は思う。ならば、そのようなズレを抱え込んでいるかも知れない学生を眼の前にして、さて、今ある知性の側はどれだけの手当をしようとしているだろう。「堅い本」のありようにも、すでに歴史はある。