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今回のオウム事件については、これまでのいわゆる「宗教」と何かが違う、と、誰もがどこかで漠然と感じているはずです。なのに、その“何か”の内実がまだうまく言葉になって社会に共有されていない。そんな未だ意味づけられない、うまく説明されていないからこその不安が、今のこの“漠然とした不気味さ”の大きな部分を占めていると思います。
とは言え、六〇年代に創価学会が伸びた時も、いわゆる“折伏”が社会問題化した時期がありました。戦前には軍隊まで出動した大本教の大弾圧だってあったし、さらにさかのぼれば、明治末にはすでに当時のメディアぐるみの「淫祠邪教」キャンペーンで袋叩きにあって消えた新興宗教だって出てきている。そうやって見てゆくと、「宗教」がらみのこのような現象は珍しくないと言えるし、もっと言えば、大衆社会化が進展するにつれて「宗教」はそれぞれの段階に応じて異なる位相を見せてくるものです。その意味で、メディアと情報環境、そしてそこに宿る社会意識といった問いの立て方を抜きにして「宗教」は語れない。そう考えれば、今一般に「宗教」と名づけられているものだけが宗教とは限らない、ということだってある。たとえば、マルチ商法をめぐる人間関係から、ある種の市民運動や政党活動の硬直、“自己啓発”の名の下に強いられる新入社員研修や、さらにはあらゆる現象を“ユダヤ”と結びつけて説明しようとするユダヤ陰謀史観に至るまで、「宗教」ならざる宗教はすでに身近にいくらでも浸透しています。問題は、それらの現象を共通の枠組みで貫いて語る視点も仕掛けも、まだ整えられていないということです。
ひとつだけ糸口を。オウムの組織の中核を占めていると言われるのは三十代半ばから二十代後半、その意味では「若い」集団です。彼ら彼女らはとりもなおさず偏差値世代であり、さらに言えば、八九年夏の幼女連続殺人事件の容疑者、宮崎勤と意識としては同世代です。あの夏以降、あの事件をていねいに語り、論じ尽くそうとしなかったツケはやっぱりこんな形で回ってきやがったな、と、まさにその世代に属する僕などは思っています。自分自身の生きる場におのれの消化しきれる範囲を越えた情報が平然と殺到し、どんな現実もディスプレイ上に等価の情報となって並び、キーボードひとつで「世界」とつながると思えるようにさえなって現実の遠近法が狂ってきた結果、リアリティもまたどこかで消化不良を起こす。たとえば、「マルチメディア」や「ネットワーク」といった流行りのもの言いは、一方でそのような情報の消化不良を促進する効果をもたらしています。
敢えて言揚げすれば、これは「われらの内なる北朝鮮」を野放しに作り出した結果の「ぼくたちの連合赤軍事件」であるということです。そしてそれは、高度経済成長期以降に社会化した者たちの意識のありようをつぶさに語る言葉をつむぎ出そうとしてこなかった、そのように「あとに続く者たち」と関わろうとしてこなかったことのツケでもあると、真剣に思います。