オウム事件の周辺

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 先日、東京のターミナル駅の周辺で、白い服を着たオウムの信者たちがいままでと同じように平然とビラをまいているのを見かけた、という話を聞いた。複数の人間から耳にしたし、何よりあれはそれくらい底抜けスッポンポンの連中だと思うから、ありがちな街のうわさなどではないだろう。

 それにしても、この危機感のなさ、身の大きさの現実に対するリアリティのなさというのは何だろう。現に、通りがかりの中年男性がひとり、信者に食ってかかっていたという。さもありなん。そのうち、オウムの信者が一般市民に袋叩きに合う、てないやな事件だって実際起こりかねない。いや、単なる通りがかりなどではない、「宗教」一般に対する視線が変わりつつあることに敏感になっている他の宗教団体などが自身の正当性を証明するためにオウムの信者を襲う、といった事態ならば、もっと現実味は増す。

 これが全くの確信犯、自分たちは公明正大、何も恥じることをしていないから、と昂然と街角で胸張っているのならそれはそれ、万一襲われたところでひとまず以て銘すべしだが、おそらくそんな背筋の伸びた話ではないだろう。あるいは、最近の報道で改めて紹介されることの多い上九一色村熊本県波野村など、これまで彼らと対峙してきた場所の取材映像を見ていても、オウムの連中よりも地元のオウム対策同盟などの人たちのたたずまいの方がはるかに攻撃的、肉感的で「世間」の確かさ旺溢、申し訳ないが率直に申し上げてよほどガラの悪い印象。これに対して肝心の相手はというとただ押し黙ったままビデオを回したりカメラを構えたり、あるいは両手を広げて金切り声で「入らないでくださいッ」の一点張り。いやはや、能書きの中身などよりはるか以前、ガラの悪さや攻撃性も含めた生身の存在感、生きてそこにある人間としての輪郭の確かさにおいてまるで喧嘩になっていない。だから、かけひきといった相互性も成り立たない。地元の人たちはさぞイライラしたことと思う。たとえば、かつてのストライキのピケをめぐる対峙では、あんな情けないことはなかったはずだ。

 麻原彰晃が言い張っていたように、今回の強制捜査に際してもオウムの信者たちは確かに「無抵抗」ではあったかも知れない。だが、その「無抵抗」の内実とは別に確たる主義や信念があってのことなどではなく、単にまわりに対する想像力が欠如しているに過ぎない、という現実は充分にあり得る。あれは誰だったか、終末論はいけない、ともっともらしくテレビで眉ひそめていた宗教学者がいたが、ああいう身体性とその上に成り立つ関係性に宿るような終末論だからあんなものしか出てこない、という側面だってあるだろう。終末論一般という「観念」に責任を押しつけるのではなく、その「観念」がどのような「身体」に宿っているのか、という視点を忘れてはまずい。

 ああ言えばこう言う、いや、別にとりたてて悪気もないのかも知れないが、ひたすら言葉だけは口先からつむぎ出されてくる。言葉ヅラだけはそれなりの整合性はあるし、別にこちらを挑発したりする邪悪な印象は薄い。ただ、そのような言葉だけが画面にスクロールするようにただ平板に流れてゆく。言葉に本来宿るはずの想像力や喚起力、あるいはもっと素朴な「力」の部分がどこかで漂白されてしまったような、周囲に向かわないまさに記号の羅列。そのようなリアリティのない身体に直面した経験は、別に宗教がらみでなくても身近にいくらでもある。たとえば、八〇年代出自の新人類系ライターのたれ流す文章や、おのれを棚上げしたまま国連や海外青年協力隊で働くことにあこがれる学生の口ぶり、あるいは“優秀”と評判の若手研究者の学会報告など、「口先だけ」であることについての自信のなさが、それを自省しないままに勝手に主体の側を甘やかし、ただその自信のなさのままくるみこんでゆくような樹液のような言葉のありよう。だが、字ヅラ言葉ヅラの整合性だけでその背後の主体も間違いなく確かなもの、と思ってしまうこれまでの“常識”からはこのリアリティのなさの内実は計測しにくい。だから、このような事態になるととたんに“不気味だ”といった印象ばかりが肥大する悪循環。どちらにしても不自由だ。

 このような「豊かさ」の中の「宗教」とは果たしてどのような形をとるのか。ものの豊かさに対する心の貧しさ、といった図式はもういくらでも語られてきているが、しかしその「心の貧しさ」の内実をほぐしてゆくような説得力ある言葉はまだない。生きてゆく上の不自由はひとまずなくなり、世界一の長寿まで達成した社会に生きながら、うっかりと「超能力」や「解脱」や「ユダヤ」といった説明に心吸い寄せられてしまう、そういう種類の「貧しさ」だって立派にあるのだということ、そしておそらくは人間の社会というのはそのようなものだということ、それらをきちんと言葉にして世界という「世間」に向かって示す責任がわれわれにはある。今やこの国は、人が宗教へと向かう古典的な原因と言われる「貧」「病」「争」に、さらに「野放図な自由」と「確信なき豊かさ」と「分際を超えた高等教育」とを加えなければならない事態を迎えているのかも知れないのだから。



*1:西日本新聞』『東京新聞』掲載原稿。