オウム・陰謀論と「リベラル」

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● いよいよもって大変な局面になってきましたね。

○ オウム真理教の一件かい。

● そうですよ。確かに状況証拠からはサリンを作ったってことだけは疑われても仕方ないし、これまで拉致監禁なんか繰り返してきてることもまずいですよ。でも、それはそれとして、マスコミは大騒ぎするだけで警察権力の強制捜査の問題を誰も言わなくなってしまったもの。リベラルな批判勢力がしっかりしていた頃ならば、それこそ議論百出、こんなムチャクチャな捜査をやる度胸もなかったでしょうに。

○ お、まだ若いのに一体どこで覚えたんだ、そんなもの言い。確かに強制捜査の問題はあるさ。また、メディアの舞台でそのことを言う連中が今となってはかなり少ない、そのこともまた確かだ。

● でしょでしょ。そんな権力側に都合の悪いまっとうなことを言う人たちには発言の場所が与えられないんだもの。

○ おっと、その「まっとう」かどうか、てなもの言いは、それ自体硬直した「正義」を背負ってることを匂わせちまうから、あまり持ち出さない方が得策だと思うぞ。そんなのあんたらが勝手に「まっとう」と思ってるだけのことじゃん、で片づけられる世間だってもういくらでもあるんだし。

● なんですかぁ、また例によってめんどくさいからみ方するんですねぇ。

○ からむわけじゃないけど、せっかくの機会だから考えてみようって言ってるのさ。いいか、そういう「まっとうな」意見を持つ人たちがメディアの舞台において発言の場所が与えられないのは、彼らが「権力」に都合の悪いことを言っているから、というだけの理由からなんだろうか。彼らに発言の場所が与えられないのは、彼らが商品価値のあるような発言をしないから、という側面だってあるんじゃないか。

● それは、メディアの中での商品価値そのものがそういう権力側に都合の良いことだけを言う、その前提から発生している以上、当然じゃないですか。だからこそ、批判勢力としてのメディアの自由、タブーなき言論の場が必要なんですよ。

○ あ、その「タブーなき言論」ってのもそろそろイエローカードだな。それは個々の内面での努力目標というか、ある倫理的基準としてはもちろん尊重されるべき徳目だと思うけど、現実にメディアで社会的に発言するという時にはどのような形にせよ何らかの配慮がなされないってことはあり得ないわけだろ。「タブーなき言論」ってもの言いでうっかり想定されてしまう状態ってのは、ともすれば何でもありの言いたい放題、ってだけのことだったりするからな。発言に自分で責任を負う回路が希薄になった状況をほったらかしたままでの何でもありの言いたい放題、ってのが果してどういうとんでもない事態になるか、たとえばあんたの好きなパソコン通信の最も悪い面じゃないんだっけ。

● パソコン使えないくせにそういうことには詳しいんですね。

○ 通信をのぞくくらいはできるさ。どうだろう、今のこの国のメディアってのは、ただ「権力」に都合の良いことを言い続けるだけで発言力を確保しておけるようなものか?

● それはまぁ、そんなに簡単なことでもないでしょうね。

○ だとしたら、「まっとうな」人々に発言の場所がなくなったということは、全体としてそのようなメディアの雰囲気はあるにせよ、と同時にそのような状況で発言場所を確保しておくだけの商品価値について磨きをかける、その努力を怠っていたという面もないではないよな。メディアが自分たちには発言の場所を与えてくれない、という自覚があったとして、その自覚に対する説明として、自分たちに発言させるとよほど都合が悪いことがあるんだろう、というだけじゃ、悪いけどオウムの連中の妄想と構造は同じだぞ。それにな、こと今回の一連の事件に限って言えば、捜査のやり方うんぬんを言ってられない事態なんだと俺は思うぞ。

● あれれ、震災の時はあれだけ軽挙妄動を戒めて、市民のボランティア活動にまで水ぶっかけてたのに、今回は特別ってのは何だかスジが通らないような気がするなぁ。

○ 軽挙妄動しろなんて誰も言ってないさ。ただ、今回のオウムの一件は震災なんかとはまるで意味が違う。もっと言えば、これまであり得たような問題状況と質が違う。敢えて言えば、「八〇年代が終わった」という意味でかなり大きな意義を持つと思ってんだわ。

● またまたお得意の八〇年代論ですか。もう今年は九五年なんですけどね。第一、ニューアカとか新人類とか、その頃おいら小学生だったから知りませんよ。

○ 知らないことと知らないままでいいこととは違うだろ。今回の一件は、ものを言う、言葉で考える、その結果を自分の責任で引き受ける、って手続きが最終的に問われてるんだよ。今回、警察を含めたそれこそ「権力」の側が、あれだけ大規模の強制捜査はもちろん、一度は自衛隊の治安出動まで考えたってのは、一体どういう理由があると思う?

● ここで治安出動しておけばあとあと都合がいいと思ったんじゃないですか。

○ 目先のことそっちのけにしてあとあとの都合だけで官僚組織がそこまで動くとは思えんが、まぁ仮にそうだとして、だったらどういう具合に都合にいいんだ?

● そりゃあ……たとえば、学生運動に対してもすぐに治安出動できるとか。

○ そんな学生運動の芽が今、どこにある? 自衛隊に治安出動させるくらいの学生運動があんたの言うような形で今あり得るなら、そりゃ前向きに評価したっていいくらいだ。

● だったら、日本を軍事国家にしてゆくために都合がいいと……

○ 軍事国家ってどんな状態だ。

● また徴兵制になってですね、軍事予算がどんどん増えて……

○ おいおい、今この日本でわざわざ徴兵制を採用するメリットがどこにあるんだよ。冷戦崩壊以降、前面装備の縮小と人員削減を真剣に考えなきゃならない状況だぞ。第一、どこにそんな古典的な意味での軍事国家を望んでいる勢力がある?

● 小沢一郎とか、いるじゃないですか。

○ お、出たな。別に俺は小沢贔屓でも何でもないけど、しかし発言などを見る限り彼は、軍備増強を望んでいる、などとは一言も言ってないぞ。

● そりゃそんなことはっきりとは言わないですよ。言わないけど、本心はそうですよ。

○ うーん、そりゃ可能性が絶対ないとは言わないが、何でもかんでもそう疑ってかかるのもどうかなぁ。小沢の本心をあんたがそこまで確実に察知する根拠ってのをむしろ知りたいくらいだわ。何より、そりゃ「軍事」に対するイメージが古典的なまんまだよ。「権力」は何かと言うと自衛隊を出そうと考えている、という前提でだけものを言うからそうなるのさ。で、そういう「権力」イメージも、戦後の過程から見直されていった「戦前」のイメージから出発してるんだと思うよ。

● でも、「権力」には本質的に変わりないと思いますけど。

○ 政治学の教科書だな。まぁ、理論のレヴェルではそうも言える。でも、具体的に考えてみようよ。これまでのところ日本の社会に銃火器は普及していないし、徴兵制もないから国民に組織的な戦闘訓練の経験はないし、治安維持活動はひとまず機動隊で十分のはずだ。くやしいけど今の機動隊には、装備から訓練からそこらの市民じゃとても対抗できない。ありゃもうほとんど治安維持軍さ。天安門事件の時も、中国政府が機動隊をもっていたら軍隊まで出すことはなかったし、死者まで出すことはなかっただろう、って言われてる。ろくに武装もしていず、十分な組織的行動の訓練もつんでいない群衆に対してなら、鎮圧するのに軍隊が出るまでもないのさ。なんでその日本でだよ、今どきわざわざ自衛隊の治安出動まで要請するような過剰な身構え方をする必要があったのか、その部分が今のところまだよくわからないままなんだよ。化学戦の装備までした三千人規模での強制捜査ってのは、もうほとんど戦争だよ。

● ですよね。だからあれはわざとそういう大騒ぎをしてみせたんじゃないか、と……

〇 とことん陰謀史観だなぁ。何が起こってもユダヤが悪い、てなキレた連中と変わらないぞ。俺にはあれが単なるパフォーマンスだけとはとても思えない。パフォーマンスで四千着もの防護服を自衛隊から借用するか? それほどとんでもない事態になるかも知れない、ということだったんだろう、そう考えるのが自然だよ。だって毒ガスだぞ。化学戦が日常的に当たり前になっちまうってことだから、ひとまずとんでもない事態だよ。今や東京は一気にゴラン高原よりヤバい場所になった、って言ってた奴がいたけど、ある意味じゃ事実でさ。化学兵器ってのはそういう意味でこれまでの武器とは意味が違うと思うぞ。

● それはもちろんそうですよ。大変なことだってのは僕だってそう思ってますけど、でも、だからと言って、これをきっかけに今後いろんな市民勢力への弾圧になってったりしたらもっとまずいじゃないですか。だから、今のうちにきちんと批判すべきところは批判しておくことが必要なんですよ。

○ それは確かにそうだ。カウンターの役割としてのツッコミ主義に立った言論の必要性な。もっとも、五五年体制下での野党ってのは、そのツッコミ主義から始まってそれが形骸化していった結果悲惨なことになったんだけど、それはいいにしても、ならばさて、今のこの状況でその素朴ツッコミ主義はなおどこまで有効だろうか。たとえば、だ。サリンが庭先にばらまかれたとしてそんなものかなわん、と思わない奴はいないわな。いないからと言って、強制捜査が正しいということと違うのはもちろんだけど、一方で、強制捜査をほったらかしてサリンばらまかれてもいい、という立場を胸張って説得できるかどうか、問題はそこにかかってくるじゃないか。

● 死ぬのは誰もが嫌ですよ。そんなの当たり前じゃないですか。

○ だったら、当たり前だからこそ、その当たり前を斟酌した主張ってのが必要なんじゃないか。当たり前に対抗するためには、その当たり前が当たり前になっている状況について計測できるだけの力も知恵も必要だろ。その当たり前が間違ってる、と言い張るだけじゃまずダメ。まして、その当たり前の側にサリンなんて世界的にも想定しにくかった現実までまつわってるとなると、こりゃ言論は分が悪いわな。それでもなお、ものを考える立場としては強制捜査の行き過ぎはいけないと言う必要がある、それはわかる、だとしたら、その立場の有効性自体を確保する方策を斟酌した上でものを言わないと。それを条件反射のように「捜査は慎重に」とか言うだけじゃ、だったらおまえサリンばらまかれてもいいのか、という当たり前のリアリズムに対抗できない。

● まっとうなことであってもまっとうと思ってそこにあぐらをかいてるだけじゃ評価されない、聞いてもらえない、ってことですか。

○ 残念ながらそういう時代になってきているのさ。そこらへんほったらかしといてただ自分の発言が正しいから、まっとうだから尊重されると勝手に思うことの方が、もしかしたら厚かましいかも知れない。いかに信じるべき「正義」があるのだとしても、その「正義」を現実に実効力ある状態にメンテナンスして手入れしておくことは常に必要だろ。イデオロギーが崩壊した後は、そういう横並びの「正義」がそれぞれの居場所を確保しながら主張する努力をしなければまずい。それは、必然的にその「正義」の見られ方とか、世間との距離感を自ら計測することに通じるわけだし、その上でものを言う、説得する言葉を持つということが要求される。言葉を引き受ける主体性が最終的に問われてる、ってのはそういうことさ。たとえばだよ、原発で大騒ぎする連中が今回のこの状況でロクに騒がないのが不思議でしょうがないんだ。原発が危ない、そのことは俺も認める。そりゃあんなものないにこしたことはないと思う。思うけど、しかしまた、原発に携わっている技術者たちや組織には原発事故を起こそうと思ってやってる人間は一人もいない、と俺は思う。それでも起こっちまうから事故なんだけど、でも、その事故を起こさないような最大限の注意と努力は専門家として払っているはずだ。あんたの好きな「権力」の側にしたって原発事故なんてやられた日にはたまったもんじゃないぜ。そういう向こう側のリアリティすら信じない、と言うのならこの世の中、医者にもかかれなくなるし、電車にも飛行機にも乗れなくなるし、何ひとつ食べられなくなる。自分の眼で見ないことは信じられない、信用できない、というのは、突き詰めると他人の体験を拒絶する状態に陥るな。

● コミューンみたいなもんですか。なんかオウムの連中の世界観もそんなものではありますけどね。

○ その通り。自給自足の夢ってのは、それ自体が近代の裏返しのところがあってさ。その意味じゃ、あの世界観は今の日本の世間のある反映でもあるわけさ。だって、自給自足ったって有機農法ひとつ研究した形跡がないんだろ。そのくせ、スタジオとか印刷施設は立派なの持ってたり。三次産業が肥大しちまってるあたり、まさに今の日本の産業構造さ。「自分」の体験だけを至高のものとして、それ以外の他人の認識や体験を信頼していない。閉じるってのはそういうことだよな。原発よりはるかにヤバい、と俺はまず思ったよ。今回だけはいつ自分ごとになっても不思議はない。警察的リアリズムってのは、なるほどあるのさ。で、それは少なくとも「科学」の手続きの上にある。だってさ、ブツからひとつひとつたどってゆくわけだろ。価値相対主義の嵐の吹き荒れた八〇年代の清算が不完全なこの状況で、なお「事実」ってもの言いに一番忠実であらざるを得ないのは、今おそらく警察の連中なんじゃないかと思うよ。そのリアリズムへの最低限の信頼をいきなりなくしちまったままでいいかっていうと、そりゃ違うだろ、と俺は思うんだけどさ。

*1:『社会運動』誌での連載原稿。「対談」の体での、いわゆる当時の「プロ市民」的定型に凝り固まった若い衆世代相手の説教系企画。のちに『大問答!』としてまとめたもの。とは言え、そもそもが生活クラブ生協の理論系機関誌でこんな連載、やらせてくれていた編集者もいた、ということも含めて、まだシアワセな時代&状況だったのかもしれない。