オウムとメディア、その「批判力」のありかたについて (草稿)

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 地下鉄サリン事件から始まったオウム真理教がらみの大騒動だが、事態がひとめぐりして幕切れが見えてくるに連れて、改めて警察の過剰捜査についての批判が出始めている。

 それらは報道のあり方に対する批判とも複合しながら、なるほど大騒ぎしていることはわかるけれども実際のところ何が起こっているのか確かなところがよくわからない、という、今のこの国の情報環境に対する根深い欲求不満を醸成し、響きあっている。

 過剰捜査についての批判はきちんとなされるべきだし、限度を超えた報道姿勢も問われるべきだ。だが、犯人が誰であれ未だ残りのサリンが発見されていない以上、この段階での批判にはそれなりの仕掛けや留保が最低限必要なはずだ。にも関わらず、すでに半ば自動化した陳腐な「権力」批判、メディア批判のもの言いを繰り出すだけで何かものを言ったと思い込む手合いは、彼らの言う「権力」側と同じ大騒ぎの磁場に巻き込まれていることにまるで無自覚なことを自ら証明している。自身の置かれた情報環境についてろくな留保もせずにいきなり「情報操作」を持ち出す思考は、往々にして陰謀史観に接近してゆき、それこそ「米軍機が自分たちを攻撃している」といったオウム側の妄想によく似てくる。

 今回の一件は警察にとってもこれまでの経験則から図れない全く異例の事態だったのだろうと僕は思っているが、そうだとしても、いや、だからこそなおのこと、警察はもっと捜査過程での情報を公開すべきだろう。ここらへんの硬直した身構え方は、陳腐な「権力」批判のもの言いを持ち出す手合いの意識と対応している。どっちもどっち、なのだ。

 今、この状況で求められているのは、右と左、権力と民衆、といった旧来の対抗図式にとらわれた空虚なもの言いなどではなく、といって、全てはメディアの舞台での物語である、といった主体性棚上げの八〇年代的無責任でもない。このような屈折した情報環境を視野に収めながら眼の前の状況との距離においてなお有効な言葉を発そうとする、言わば〈いま・ここ〉から不用意に離れぬよう言葉を抑制する方法意識の鋭敏さなのであり、その上で「誰もがおおむね事実だと思える」リアリティの水準を探って行こうとする真摯な態度である。いささか乱暴に言えば、そのような方法意識を抱えつつ新たな「常識」の構築へと向かう言葉を発そうとする身振りそのものの方が、発される言葉の中身よりも今や“言論”としては有効でさえある、そんな難儀な事態にまでなっているかも知れないのだ。

 われわれの社会は確かに大きな批判力を持った。「情報」に取り囲まれた状況における中庸なバランス感覚の育成という意味では、それはこれまでになかったほどの広汎な社会的訓練だったと思うし、まただからこそ、それ以降のこの国の大衆社会は従来の古典的な大衆社会論が言ってきたような一義的で単線的な「情報操作」などそう簡単にできないような構造を持ち得てもきた。それが今日の「観客民主主義」の内包する健康な部分かも知れない、ということをこれまでも僕は何度も言ってきたし、またそれをきちんと評価してゆく言葉もつむぎ出せずに昔ながらの「衆愚」論で裁断するだけでは、落ち着いて眼の前の現実につく言葉をつむぎ出せないという意味では、最も悪い意味での「戦後民主主義」的「民衆」万歳論と同じ。メディアがいかに発情し“物語”に盛り上がろうとも、そしてそれにいかに素朴な興味を刺激されたとしても、つまるところあくまでもメディアの舞台上でのつくりごと。どこかで「それってちょっとやりすぎなんじゃない?」というバランス感覚を回復してみせる程度には、今のこの国の「観客」というのはひと筋縄ではいかなくなっている。

 いずれみな同じ人間のこと、個々の内面でどのようなことを考えていてもいい、しかしその考えにもとづいて関係ない人間を拉致監禁するのは困るし、ましてサリンみたいなとんでもないものを勝手に作ってばらまくのはやめてくれ、ということのはずだ。言い古された物言いを弄せば「世間に迷惑をかけない限りにおいて」の自由である、ということを認知すれば、「世間」という「一般的な視線」とうまくやってゆく、その枠組みというのは最低限あるはずだ。それをも「自由」で乗り越えるというのなら、やはりそれだけの軋轢は覚悟するのが当たり前。その意味で、彼らが過剰に「法律」に依拠したがるのが僕などにはどうにも理解できない。きっと裁判の結果、都合の悪い判決が出れば彼らは「裁判批判」を繰り返すに決まっている。自分たちの信じるリアリティを何か超越的な価値が正当化し救ってくれる、と思い込む意味では、「法律」や「裁判」に対する視線がすでに宗教と変わらないものになっている。唯一無二の超越的価値を信奉する傾向は、冷戦下のイデオロギーや昨今のカルトを批判する側に置いても同じ、ある意味で「個人」教に陥っているのではないだろうか。 *2

 過剰捜査批判、報道批判のもの言いを繰り出す手合いの基本的価値観とは、ひとことで言ってレッセフェールである。どんなけったいな信仰をしていてもそれは個人の自由、教祖の入った風呂の湯を高価な値段で買うなどという不条理な売買がなされていたとしても、当事者同士が納得して行なわれているのだから他人がとやかく言う筋合いのものではない、と彼らは言う。なるほど、総論としては僕も全くそう思う。その最低線は戦後のわれわれの社会が維持してきたものさしだし、いかに「戦後民主主義」が問題をはらんでいるのだとしても、この最低線だけは守るべき一線だとさえ僕も思っている。

 だが、その「自由」は世間の一般的な視線からすればやはりヘンなものにもなり得るし、ヘンなものと見られることについて否定しきることもできないだろう。同じように、こいつら化学兵器にまで手を出しているかも知れない、という疑いを持たれてしまう、実際に持っているか否かとはひとまず別に、そのように疑われてしまうことについての責任というのもあるはずだ。なぜ疑われるのか、と自省する力の必要。何も証拠がないところのでっち上げ、ということももちろん世の中にはあり得るだろうが、しかし警察のリアリズムの側から見てどのような「疑い」が立ち上がり得るのか、それを落ち着いて自らにフィードバックする知恵も宿らないままでは、そんなもの信教の自由もヘチマもなかろう。

 宗教や芸術は本来反社会的なものだ、というのは、ひと頃オウム擁護に回った宗教学者や評論家たちの依拠する論点だった。本質論としてはそうだと僕も思う。思うが、だとしても、現実に家族を拉致され、身ぐるみはがれた人たちからすればそんな能書きが何の救いにもならないことは言うまでもないし、何よりそれらの本質を内包しながら、この世の現実とつきあいつつ何とかやってゆくことを決めたからこそ、宗教や芸術もまた法律で守られているのではないのか。いかにあやしい妄想を抱いていてもそこまでは誰も否定できない。しかし、それを最低線として守ることを決めたのなら、そこから先、そのような内面を抱きながらなおこの世に生きる約束ごとをある最大公約数としてきちんと押しつける、それもまた民主主義社会に生きる者の責任であるはずだ。

 だから改めて言う。これは「宗教」弾圧でもなければ、「思想」弾圧でもない。

*1:草稿だったと思う。分量自体が多いし、内容的にも整えられていないし、それだけ言わねばならぬと腹くくったことがあふれるほどあった、そういうできごとだったんだと思う。

*2:以上のふたつのパラグラフ、青色になっている部分は、分量の都合上だったと思うが、掲載時に削除した。