宗教学者、ってなあに?

 それにしても、宗教学者というのは一体どういう人たちなのだろう。

 別に、ここしばらくですっかり醜態をさらしてしまった、かつてオウム真理教を擁護した手合いをさして言っているわけではない。いや、彼らにしても、以前はあれをましな宗教だと思った、そのことの根拠と当時の文脈とを明確に説明してくれればいいのだし、もしもそこから今の状況との間で自分の判断が変わっているのだとしたら、そのことを改めて示してくれればいい。まずはそれだけのことだ。自分たちの発言が社会にどのように流通してゆき得るのか、ということについての想像力の欠落が責任意識の希薄さに連なっていった、そのことをまず自分で謙虚に認めることからしか何も始まらないのだから。

 それとは別に、「あれはすでに宗教ではありません」といった発言を平然と行ない、口をぬぐう宗教学者がいる。こちらも見逃してはいけない。一応権威ということになっているが、厄介そうな眼の前のできごとには極力足を踏み入れず、古くさい教義研究か、せいぜい既成教団からたっぷり研究資金を援助してもらった上での人畜無害の研究か、といったところでお茶を濁すのが関の山の先生方だ。そして、学界ではこちらの方が圧倒的多数派。すでに宗教ではない? あれが宗教でなければ何だというのか。あれを宗教の問題と見ることのできない感性がもっともらしく講じてみせる宗教学など、もはや何の存在価値もない。そんな鈍感な学者が多数を占める宗教学会など、即座に解散宣言するべきだ。

 オウム擁護に走って醜態をさらした手合いが、眼の前で起こっていることに関わる時の腹のくくり方について相当甘かったことは間違いない。しかし、だからと言って旧態依然の研究態度のまま、何も現代社会の問題と関わらずに浮き世離れしていていい、ということではあるまい。そのような「学問」の浮き世離れも、今回の事件の一因ではないのか。(鶴)