「ムセイ老」と呼ばれていた。まだ若い頃からだ。
「老」と呼ばれてしまうようなタチの奴が、たとえば学校の同級生といった広がりに、必ずひとりいる。ジジむさい、というわけでもないのだけれども、何か達観したような、その程度にはもののわかったような風情。そういうある種のデタッチメントの気配、内省的資質の存在感が、「老」と呼ばれる大きな理由なのだと思う。
本名福原駿雄。明治二七年四月一三日、島根県益田の生まれ。父庄次郎は益田警察署に勤務する巡査だった。津和野に転勤になった後、明治三〇年に東京へ。四歳の秋、母ナミは駿雄を捨てて出奔、翌年正式に離婚後赤十字の看護婦になる。日露戦争に従軍した後に医師と再婚。死別後は婦人運動に身を投じたという。後に弁士となった夢声はこの母と再会するが、互いに母子という感じを持ちきれないまま、母の酌で酔っ払った夢声は“さのさ”を踊ったという。
父は帝国党という政党事務所に事務員として勤めながら、内職も色々としていたらしい。明治四十年に東京府立一中に入学。この頃から寄席通いに血道を上げ、近所の「恵智十」などに足繁く通ったという。この時期の「恵智十」である。全くよだれが出る。
徳川夢声が「ムセイ老」となっていった要因のひとつに、このぜいたくな寄席体験もあると思う。それは正しく落語、あるいは講談であって、間違っても浪曲ではない。近世以来の町人の文化の水脈とどこかで接する幸福。彼だけでもない。そういう街育ちのインテリたちにとって、寄席がまさに一般教養となっていった生意気の系譜というのがある。それは後の正岡容やさらに下って小沢昭一、あるいは安藤鶴夫の描く世界に登場する若い寄席マニアたちにも通じている。寄席はそんな街育ちの自省力を育む場所でもあった。
街育ちの子はませるのも早い。本名三浦シゲ、後に作家伊藤左喜雄の母になった女優井沢蘭奢との因縁もこの時期に胚胎している。「あの事なかりせば、私はもっと明朗な人間であり得た、と思われる」と夢声自身、晩年になっても述懐するほどの大事件だったが、詳述する余裕がない。関心のある向きは、関係者の回想も含めて綿密な検証が施された三國一朗の労作評伝『徳川夢声の世界』(青蛙房 一九七九年)を参照していただきたい。
一高受験に失敗した後、自立を志して大正二年に桜田本郷町第二福宝館の主任弁士だった清水霊山に入門。本当は落語家になりたかったのだが、父の友人などが寄席に来て顔がわかるとまずいというので、弁士にしろ、と申し渡されたという。後に政治家にでもなる時があれば雄弁術の修行として役に立つだろう、という目算も父にはあったらしい。
だが、弁士徳川夢声はインテリに過ぎた。いやしくも一高受験を志していた、その程度には文字読む人々の予備軍だったわけだ。また、売り出しの場所も赤坂溜池、横文字のシャシンで売ったハイカラな葵館の専属弁士。浅草あたりの牛めしのような弁士たちの肌ざわりとはおのずと違いがあったはずだ。事実、自伝の中には、この頃大阪へ武者修行に出かけたものの、同じ弁士と言いながらそのあまりのノリの違いにびっくり仰天、ほうほうの態で逃げ帰るエピソードなどが記されている。マスメディアの黎明期、まだ東と西とが明らかに違う歴史を背景にあった時代を彷彿とさせて興味深い。
活動弁士というが、もとはと言えば東西屋。夢声の仲間でもあった山野一郎によれば、明治三十二年に京橋新富町はどろんこ小路に住んでいた越前屋六兵衛という親分が、頼まれて始めたのが天地開闢という当時の新稼業。それも、向こうから輸入した短い実写フィルムばかりで間がもてないのをタスキにかけてエンドレスにしたのはいいが、なおのことわけがわからなくなったのを解決するための苦肉の策だった由。真偽のほどはともかく、まぁ、始まりは良くも悪くもその程度のものだった。
活動写真自体は明治三十年三月上旬、神田錦輝館で興行されたのが最初とされている。その後トーキーの普及により、弁士そのものはおおむね昭和八年頃にほぼ姿を消す。だが、全盛時の大正中頃には、映画スターのギャラよりも一流弁士の給料の方がはるかに上だったともいう。この活弁システムのおかげで、本国では未発表の駄作も日本では公開され、しかも大歓迎された例まである。「いかなる難解作品だろうと、日本ではカツベンがこれを大衆化して紹介したから、日本の映画ファンというものは、諸外国が鑑賞レベルが上であったように見えたものだ」という述懐もあながち自画自賛だけでもない。
夢声自身、弁士から始まり映画俳優、舞台俳優、漫談家、ナレーター、インタヴュアー、随筆家……と弁士が成り立たなくなって以降にその才能を開花させた印象が強い。今ならさしずめマルチタレントてなことになるのだろうが、まだそんな便利なもの言いはなかった。だから「なんでも屋」。しかし、この「なんでも屋」は大変な力を持った。
近年刊行された『古川ロッパ日記』と並んでこの時期の生活記録として貴重な内容を持つ『夢声戦争日記』昭和十九年八月十八日の条に、彼が通った「いとう句会」で、座のひとりがこんなことを言ったという記録がある。
「サイパンで敵の強力放送が始まったら、夢声を放送員にして、敵のデマを粉砕させることだよ。夢声なら声だけで日本中の人間が、ああ夢声だと分かるからね」
声だけで誰もが夢声とわかる、そのくらい日本人は彼の声になじんでいたということだ。ラジオを始めとする、新たに羽根を広げ始めたマスメディアの影響力。だからこそ、彼はまた奇妙な信頼感も得ていた。戦争末期の楽屋でも、仲間の漫才師や浪曲師たちが戦争の成り行きについて口々に尋ねてくる。もちろん、夢声ならば何か大局的なことを答えてくれるだろう、という期待があるからだ。
「ねえ、先生の見通しは何うです?」
この微妙な仰角の視線に対して夢声は「全日本玉砕をちらと考へながら(…)自信ありげに答える」のだ。
「さうさね、まア、敗けないことだけは確かだね。」
「さうですかい。先生がさう云うなら安心だ。」
大酒家として知られ、「ユーモア」や「笑い」といった要素を伴った表現に市民権を与え、またそのような役回りを自ら以て任じていた彼の内面のこのような屈託は、まごうかたなくインテリのそれだ。その意味で、彼はたまたまカツベンになった人間だったと言える。だが、その「たまたま」が彼本来の資質にとって幸せだったことも、また間違いない。