漫画研究、この難儀な現在



 研究であれ批評であれ、この国の漫画について内側からつぶさに言葉にしようとする意志にとって、少なくともここ二十年足らずの経緯を考えた場合、いやでも認識せざる得ない大きな転換がある。それは、現実に流通する漫画の「量」が個人で網羅し、読み尽くせるような規模をはるかに超えてしまったことだ。

 そんなもの活字の書物にしても同じこと、もうずいぶん昔からこの世にある書物はひとりの人間の生の範囲で読み尽くせなくなっている。しかし、たとえ読み尽くせずとも、活字をめぐる約束ごとには相互の仕事を連絡させてゆくだけのそれなりのスキルもあれば、その連続性の上に立った蓄積がまだ期待できる。そのような蓄積を作り上げてゆく速度を「量」が追い越してゆく事態が現実となってしまい、その結果、全体像を見通そうという意志すら宿りにくくなったことが、今の漫画研究をめぐる最大の難儀なのだ。

 何も漫画に限ったことでもない。音楽にせよ、映画にせよ、いわゆるサブカルチュアの領域においてこれは普遍的に起こってきたことだ。誰もがひと通り読者になり消費者になったことで、研究なり批評なりの意義がそのままでは保証できなくなったのだ。

 たとえば漫画の場合、漫画を敢えて知的考察の対象にする、ということだけで意味のあった状況は、実際には六〇年代で終わっている。その後、それこそかつての思想の科学研究会程度の論評ならばちょっと気の利いた大学生ならば簡単にやってのけられるくらいに漫画は大衆化してゆき、うまく語られぬ同時代の膨大な体験の束としてのみ「漫画を読むこと」は積み重ねられていった。もちろん、それ自体は何も悪いことではない。しかし、そのような誰も読み尽くせず、聴き尽くせず、観尽くせなくなった「量」の現実から、なお言葉でつむがれる「研究」に至ろうとするために必要な方法的目算や統合への意志もまた宿りにくくなった。タコツボを掘るような個別の漫画体験に自閉的に固着するばかりで、どのような意味においても健康な普遍へと向かいにくい方法意識の稀薄な散文が並列に存在するばかり。敢えて「状況」を見通そうと思えば、その瞬間から扱うべき資料の膨大さの前に茫然自失するしかない。「漫画は終わった」という決定的な発言が現場の作家から飛び出し、それに対して漫画研究なり批評なりの側も有効なカウンターを当てられないという今の状況は、このような方法的難儀が前提になっている部分が大きいと思う。(この問題についての詳細は、まんが専門誌『コミックボックス』七月号「特集・まんがは終わったか?」を参照されたい)

 ごくおおざっぱに言ってこれまでの漫画研究は、文学研究において試みられてきた方法をそのまま漫画に流用してきた。作品論、作家論に始まり、物語としての内容を論じる流儀が生まれ、といった経緯は、この国の文学研究が経験してきた研究史の後追いでもあった。もちろん、それは何らかの方法意識の下に選ばれたものでなく、ほとんど無自覚に採用されてきたのだが、それでも、映画研究においては当初から映画固有の映像表現を論じたり、またその文法を追及する流れなどが、たとえ海外からの借りものの理論であってもあり得たのに比べて、漫画研究は良くも悪くも文学研究の影響下にあり続けてきたと言っていい。やはり、書物の形をとった紙の印刷メディアである、という角度から漫画を考えようとする性癖が、知らず知らずのうちに強くあったのかも知れない。

 とは言え、ここ数年ばかりの間、辛抱強く発表され続けている夏目房之介の一連の仕事は、そんな閉塞状況を切り開く大きな勇気を与えてくれている。これまでも多くの人間が気にしながら放置してこざるを得なかった技術論、表現論の領域へ初めて本格的に踏み込む、言わば“斬り込み隊長”の役回りを敢えて引き受けようとしているかにも見える。漫画研究が技術論、表現論へと傾き出した、というのはこれら夏目の仕事に限らず、全体の傾向だとも言われるが、夏目の仕事はそのような漫画研究固有の意義と共に、「量」に凌駕された現在になおこのような形で健康な知性が宿り得ることを身をもって示した功績も大きい。竹熊健太郎らと組んだグループ作業による意欲作『まんがの読み方』(宝島社)はその意味で実に希望に満ちた試みだったと思うし、同じく、そのグループを組織するきっかけになったという講演録『手塚治虫の冒険』(筑摩書房)もまた、いかに困難であっても言葉によって現実と格闘しようという腹のくくり方において、知性本来の健康さが横溢している。この健康さを僕は全面的に信頼したい。

 もちろん、文学主義的手法にもまだ可能性はあるし、またそれ以外の視点から研究もいくらでもあり得る。たとえば、出版市場としての漫画がどのように形成されていったのか、という部分。これは文学研究などでも行われてきているが、具体的な数字を前提にした個々のメディアの形成史といった素朴な視点すら漫画研究においてはまだ十分ではない。また、作家たちの具体的な創作過程についての考察なども全く不十分。いわゆる少女漫画の表現技法や漫画としての文法の形成などは、アシスタントも含めた現場の共同性の問題を抜きにして考えられないと思うのだが、漫画研究の側からはほぼ完璧に語られぬ領域になっている。これまでの漫画研究が果たして何を達成してきて、何が未だ手つかずになっているのかすら、きちんと把握されていないのだ。

 そろそろ漫画研究に携わる人間それぞれを結びつける何らかの場が設けられるべき時期なのだと思う。依拠する立場や方法はさまざまであっても、個々の仕事は相互に連絡されて初めてそれぞれの意義を健康に自覚することができるのだし、その自覚があって初めてより豊かな普遍へもつながってゆく。具体的にはまず定期的に顔を合わせることのできる場とメディアの問題だと思うが、それに対して世話役を買って出る立場がどこかにあり得るだろうか。他でもない筑摩書房あたりは、そんな役回りを担うことを期待されるべき立場をもっと自覚してもいいはずと思うのだが、さて、いかがなものだろう。