長谷川 伸

*1

 ある時期までこの国に生きる人々にとっての一般教養となっていったような“おはなし”の束を、芝居や読みものという器にふんだんに盛って差し出した、それが長谷川伸だ。だが、駒形茂兵衛や、番場忠太郎や、沓掛時次郎といった名前を耳にして、その物語がよみがえるのは今生きている人ならばおそらく六十代から上。すでにその一般教養は、歴史の彼方におぼろに霞み始めている。長谷川伸自身の生きてきた軌跡もまた同じだ。

 自伝『ある市井の徒』の中に、こんな一節がある。

「新コは庇護をうけた、どこに在るのか見えない力に。しかし、その頃さう心付いてゐたのでは勿論ありません。」

 この「見えない力」とは何だったのか。彼ははっきりとは書かない。ほのめかしもしない。しかし、声に出して読めば一番心地良いような、独特のリズムと調子とで連なってゆく文章をゆっくりとたどってゆけば、あ、そういうことか、と心づくような瞬間が、あるところできっと訪れる。そんなわかり方、腑に落ち方を、ある時期までの日本人の最大公約数に対して準備してやることができたのが、戯曲から随筆、小説と縦横無尽に仕事をした、長谷川伸のつむぎ出した言葉だった。

 その言葉の根源は、「見る」ことに発している。明治十七年の春、横浜の請負師の家に生まれ、四歳で母と生き別れ、その後、家は没落してゆき、父とも兄とも別れ、早くからひとりで生きてゆかねばならないような境遇に置かれた“新コ”長谷川伸は、職人仕事の世界の追い回しのような場所から、しかし確かに眼を開いてそこにある“こと”や“もの“を「見る」ことを、自分のものにしていった。

「現場関係の人の中には、悪くない人と善人とがゐた。悪くない人もおなじことだが、善人はただ善人といふだけです、かういふ人達は何か事があると、前へ出る代りに後へ引込みます、新コはたびたびそれを見た。才のある人もいくらもゐたが、その中には狡かったり嘘つきが少くありません、さういふ人は小僧をものの屑ともしてゐないので、新コの目と耳とに、裏と表の違ひをご当人達が説明してゐるやうに、見せたり聞かせたりの手抜かりをよくやりました。」

 「ものの屑ともしてゐない」存在というのは、当時、別に彼だけのことでもなかったろう。女子供というのはひとくくりにそういうものであり、そういうものであるがゆえに、彼ら彼女らに何か感情や思惑、内実が宿るものとは思われていなかった。また、思われていないという事を前提にしか、人間関係は成り立たなかった。

 しかし、そんな存在にもまた「見る」ことは宿る。宿って、文字にする方法を身につけることもある。長谷川伸の生を貫いているのは、そのような「見る」ことを「書く」ことへとつないでゆくための、文字通りに七転八倒の危うい立ち回りだ。先の一節はこう続く。

「新コはそんな事からも、ひとを軽蔑することと、信頼しないこととを、いつとなく憶えました、現場掛りの中から憎むものがその為めにふえて来たやうです。頬に平手打ちをたびた食らひました、そんなとき新コは泣きもせず緊張もせず、もツとぶつのを黙って待ってゐたさうです。新コ自身はそんなことを憶えてゐませんが、それだったら、小面憎いガキだったことでせう。」

 遊廓の使い走りをしたり、父親の仕事を手伝ったりした後、兵役に行って帰ってきたシャバで、横浜の三流日刊紙の新聞記者となったのは、明治四〇年。尋常小学校に二年通ったきり、履歴書に書こうにも書く学歴のなかった彼を雇ったのは、折淵秀楼という男の功績だった。炯眼だったと言うべきだろう。給料は十二円。本当は十五円欲しかったところを、折淵が「口を極めて慰撫するのが古くからの友達みたいだったので、ツイ三円値切られ」た由。前任者は前科何犯かの神狐小僧という強盗だった男で、大正になってから網走で脱獄し射殺されたという。免囚保護事業の一環だったというが、新聞記者というのも事実、その程度のロクでもない稼業だった。だから、長谷川伸もいきなり社会面を担当させられ、一面と四面を作ることになった。全くの我流で仕事を覚えた。知らない事があると、勝手な術語を即座につくって押し通した。生きるコツのようなものは、それまでの放浪生活の頃と変わりはなかった。

「新コは街をウロつく者ではありましたが、ギャングでも博徒でもない、その頃はまだ壮士といふ言葉が残ってゐたが、その壮士でもない。しかし、観点の置き方では不良の輩の一人に数へられたことでせう。」

 そう、確かに「不良」だった。だが、この不良はやはりちょっと変わっていた。チャブ屋の女たちの自由廃業の片棒を担いだ。ちょっとしたいきがかりだったが、「恐喝取財に該当しさうなことまで」やって十三人、自由の身にした。だが、その結果は、新コら関係者三人の男がひとりずつ引き取ったうち「一人は自殺、一人は病死、一人は立ち去り、満足な結果は遂にない。三人の男のそれぞれが、一人に一人づつの然るべき男ではなかった故です。」その他の者にも、自殺が二人。この失敗から、「或る意味では本当の教育者であるかの如きものを心にもつ、然るべき男が女一人につき一人づつ必要だ」という教訓を引き出した彼は、大文字の善意がより深刻な不幸をもたらすことに気づいていた。

 その後、東京の都新聞に入り、花形記者として活躍。独立して筆一本の生活に入り、売り出したのがきっかけで昭和八年、生き別れた母に四十七年ぶりに再会する。出世作瞼の母』は、彼自身の挿話となった。自宅での勉強会を続け、大衆文学に志を持つ後輩たちを多く育成したのも、この頃から後のこと。孤立無援の場所から出発した彼は、この時点で、ようやく世間に足をつけて生きることができるようになったのだと言える。

*1:朝日新聞社『二十世紀の千人』掲載原稿のひとつ。