今東光

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 正真正銘のバラケツである。つまり「不良」だ。

 大正四年の一学期、関西学院中学部三年を諭旨退学。淡路島でひと夏遊んで暮らした後、親戚一同の協議により城崎の県立中学に転校。ここでも騒ぎを起こし、教師を殴って退学、神戸に舞い戻った。元町の絵具屋の二階で、絵の個展を開いた。淡路で深い仲になった鳴門の芸者や福原の女郎屋の娘の裸体と、自分の母親や弟の肖像画を並べて陳列するのだから並大抵の神経ではない。洋画の個展などまだ珍しい頃。まして、それが十代の生意気盛りの連中となると、こりゃもうそれ自体、見世物に等しい。

 生まれは神戸。日本郵船の高級船員の家庭。関西学院に通っていたというぐらいだから、きわめつけのハイカラである。絵描きにあこがれ、早くから絵筆を持って街をうろついた。仲間もいた。個展を開き、警察から取り締りを食ったのもその連中だった。

 芝居もやった。女の子とのつきあいもできた。もちろん、ただですむはずがない。芸術かぶれのアート馬鹿で、しかも女に手が早い軟派不良。まさに近所の札付きだった。

 稲垣足穂が、このバラケツ時代の今東光のことをちらりと書いている。神戸の中学生たちの間ではすでにそれなりに知られていて、ああ、あいつが、という程度には仰ぎ見られる存在になっていたようだが、その身のこなしに衒気と客気が露骨に見えて決していい印象ではなかったらしい。もっとも、足穂の筆にかかるとみんな同じような目にあうのだが、しかしその足穂自身、空にあこがれ、自分で手製の飛行機を作り、屋根の上に据え付け、果ては実際にエンジンをふかしてあたりを大騒ぎにしたという武勇伝があるのだから、さすがに神戸のバラケツは筋金入りだ。

 そんな今だが、父親にだけは一目置いていたらしい。怖かった、というのではない。もっと奇妙な信頼感なのだ。煙草を隠れて吸っているのがバレると、ある日そっと机の上に煙草が置かれている。それも最上級のイギリス煙草、エジプトやトルコ産の葉を使った逸品だ。父の曰く、「ジェントルマンというものは便所の中などで煙草を吸うもんじゃないよ、堂々と吸いなさい」。裕福な中流家庭の放任主義と言えばそれまでだが、今もこの煙草は記念にとっておいて一本も吸わなかったというから、親の腹くくった放任主義に見合う子供の側の責任感といったものも、時には宿り得たのだろう。

「僕は父に叱られたという意識を持ったことがない。あるいは母親の手に負えない餓鬼だと思っていたかもしれないし、仕様のない倅だと腹の仲で軽蔑していたかもしれないが、少なくとも怒りを表情に出したりしなかった。」

 逆に、というか、当然に、というか、母親に対する嫌悪感は繰り返し語られる。

「「どうせ中学校も碌にゆけないんだからお巡りにもなれないよ。(…)だから踏切り番か、それとも学校の小使さんで鐘でも鳴らすぐらいさね。なまじ丈夫に生れただけが災難さ」とまるで死んでくれよがしに罵られたものだ。僕の意見だと、こんなことを弟等の目の前で言うことはどうかと思われる。弟達は兄を尊敬する気がなくなるではないか。しかしながら絵が売れたとなると若干、掌を返すようになり「まあ、能無しなんだから絵描きにでもなるさ」と言うようになった。」

 結局、絵の勉強するために東京に出る。十八歳である。その時も父の船に便乗する。下宿は、母の義兄が家令をやっていた津軽家の屋敷内。茗荷谷にある旧藩の殿様の宏壮な邸宅から谷中の画塾まで毎日通った。もちろん、恵まれている。そして、その恵まれたところを悪びれずに甘受する。し過ぎて、女中に手を出したのがバレて放り出される。以降、市中の貧乏下宿を転々として放浪する破目になるが、こううそぶいて恥じない。

「僕はお化粧やお洒落の上手な女には魅力を感ずるが下手糞で不器用な女には少しも興味がない。ということは上手な女は閏房の戯れも巧みだが、そうでない女ときたら木偶棒をぶっころがしたみたいでまったく興覚めさせられるからだ。」

 放浪の青春が平然と街の暮らしの中にあり得た時代だった。寺の床下に雨露をしのぎ、一高の寮にもぐり込んでテンプラ学生を極め込む。川端康成との誼もこの時にできる。テンプラなのに寮長にまでなり、絶大の信頼を得たというから、身体を張って街を放浪した身にすればおかいこぐるみの一高の学生など赤子の手をひねるようなものだったろう。

 川端らを介して『新思潮』の編集に携わるようになり文壇との関わりもでき、作家としての体裁も整ってくるが、その頃の文壇の商業的な総元締めに等しかった菊池寛と大喧嘩して、筆を折る。折って、そのまま天台宗の坊主になって、今度は雌伏数十年。河内の水間寺に住職として赴いた時の武勇伝が、巷間流布された今東光喧嘩伝説の第二幕。

 当時この寺は本堂で平然と博奕をやっているような荒み方で、前任の住職が半ば叩き出されたような状態で本山へ逃げ帰った由。その立て直しを使命として乗り込んだ東光、ここでかつてのバラケツの本領発揮、大学のラグビー部や柔道部といったところのガタイのいい連中を集めて寺をほとんど砦のようにしてしまい、ワルにかけてはいずれ劣らぬ河内の百姓たちを見事平定してしまった、というもの。映画化され、勝新太郎と田宮次郎という黄金コンビによるヒットシリーズとなった『悪名』にしても、著者自身にまつわるこのような伝説が介在したところで一層輝くものになったことは否めない。

 しかし、『悪名』における八尾の朝吉とモートルの貞、それに琴糸の関係には、どこか大正デモクラシーの風に吹かれた東光自身の青春が、数十年の時間をへだてて戦後の民主主義の空気の中に描き直されたようなところがある。現実に存在した朝吉親分が持っていたはずの遊び人の手触りとは違う、“おはなし”としての明朗さ、風通しのよさで、どこか劇画調なのだ。


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『こつまなんきん』『お吟さま』など、この時期の体験に取材したとおぼしき一連の作品で“喧嘩と夜這いの河内”というイメージを全国的にプロモートした勧進元ということで、地元では評判がよろしくないというが、それもまた“おはなし”上手のバラケツの勲章かも知れない。参議院議員になり、青年誌で型破りの人生相談をやって喝采を博し、波乱万丈の青年期からすれば、処世的には成功し、安定した晩年だった。

*1:朝日新聞社『二十世紀の千人』掲載原稿のひとつ。