林 芙美子


 『放浪記』が好きだ。

 たとえば、女給仲間との身の上話に興じる様子を描写したこんな一節。

「こんな処に働いてゐる女達は、初めはどんなに意地悪くコチコチに用心しあってゐても、仲よくなんぞなってくれなくっても、一度何かのはずみで真心を見せ合ふと、他愛もなくすぐまゐってしまって、十年の知己のやうに、姉妹以上になってしまふのだ。客が途絶えてくると、私達はよくかたつむりのやうにまあるくなって話した。」

 あるいは、観察から心象へとゆるやかに流れてゆく次のような描写。

「魚屋の魚のやうに淋しい寝ざめなり。四人の女は、ドロドロに崩れた白い液体のやうに、一切を休めて眠ってゐる。私は枕もとのたばこをくゆらしながら、投げ出された時ちゃんの腕を見てゐた。まだ十七で肌が桃色だ。お母さんは雑色で氷屋をしてゐたが、お父つあんが病気なので、二三日おきに時ちゃんのところへ裏口から金を取りに来た。カーテンもない青い空を映した窓ガラスを見ると、西洋支那料理の赤い旗が、まるで私のやうに、ヘラヘラ風に膨らんでゐる。カフエーに勤めるやうになると、男に抱いてゐたイリウジョンが夢のやうに消えてしまって、皆一山いくらに品がさがってみえる。別にもうあの男に稼いでやる必要もない故、久し振りに古里の汐っぱい風を浴びようかしら。」

 一瞬の比喩に独特の腰の強さを持つ書き手だと、改めて思う。詩から始まって少しずつ散文へと移ってゆく、というのがこの世代、明治三十年後半から大正初年に生まれ大正デモクラシーの真っ只中で社会化していった世代の文学を志した人たちにかなり共通する経緯だが、その中でも林芙美子のイメージを焼き付ける力は眼に立つ。と言って、縦横に飛び跳ねる絢爛豪華な産出力というのではない。むしろ、眼の前にある“もの”や“こと”、あるいは時には“ひと”にさえも、そこにそのようにあるたたずまいから発して、しかし一気にそれを紙の上、文字の連なりに宿る風景の中に溶け込ましてしまうような、言わば瞬発系の筋力を宿した想像力だ。

 そのせいもあって、漫画と散文の違いはあれ、おそらくは似たような資質のはずの西原理恵子に「放浪記」を絵物語仕立てで描かせよう、という話が一部で持ち上がったりしたのだが、しかし、誤解を怖れずに敢えて言おう。彼女の生活史を改めて振り返ると、どうしてこのような出自の人間が文字を書き、何か創作へ向かおうというような欲望を宿してしまったのか、とやはり思ってしまう。なぜ何かを書こうと思ったのか、その問いが林芙美子の生にはずっとつきまとっている。そして、それに対する答えは、文学が好きだったから、といったふやけた「民主的」説明でだけすまされていいわけはない。何より、そのような説明は彼女が彼女の生きた時代に背負ったはずの「階級性」に対して、もっと言えばこの国の近代を支えたはずの膨大な根なし草たちの魂に対して、失礼千万なことだ。

 林芙美子。明治三六年十二月三一日、門司に生まれる。父は愛媛県の行商人宮田麻太郎。母は鹿児島の女キク。七歳の時に母は芙美子を連れて家を出て、翌年に沢井喜三郎と再婚。明治末年から大正四年まで、一家は西日本各地を行商して暮した。その後、広島県尾道に腰を落ち着け、芙美子はここから小学校に通い、さらに高等女学校にまで進む。もちろん、学資があろうはずもなく、自ら働きながらの通学だった。大正十一年、卒業後すぐに“恋人”岡野軍一を頼って上京。岡野は明治の学生だったが、翌年卒業すると因島へ帰郷。芙美子は残され、ここからさまざまな仕事を転々としながら、時に上京した母親と共に都市の底を生きてゆく。その間、詩を書き始め、詩人やアナーキストなど当時の都市遊民たちとの交流が始まる。平林たい子らとのつきあいもこの頃からのものだ。

 昭和四年、『女人芸術』に連載されていた原稿を中心にまとめた『放浪記』が刊行され、ベストセラーになる。その印税で昭和六年末から憧れていたヨーロッパへ行きパリへ滞在する。翌年帰国し、以後新聞の連載小説を含めて流行作家となってゆく。昭和一三年には従軍もしているし、朝鮮や満州にも講演旅行をしている。太平洋戦争中も仏印、ジャワ、ボルネオなどに報道班員として長期間滞在。末期には疎開していた。敗戦後も早くから活動を再開。「浮雲」など長編に意欲を見せ、旺盛な筆力は衰えなかったが、昭和二十六年六月に急死。

 戦争に対する昂揚した想いとか、大義名分に身を寄せてゆくような、男の知性にありがちな人の良さは彼女には薄い。そのへんは、同じく昭和初期の出版物の大衆化時代からから流行作家となり、戦争協力を積極的に行ない、敗戦後も作家として生きた火野葦平などと比べた場合、相当に違う。何より、戦争に対する「責任」などという発想自体ほとんどない。それは、共産党シンパの疑いをかけられて特高につかまった時にも現われている。彼女に「思想」はなく、だから「転向」もなかった。アナーキストたちとの交遊の中でも、彼女はその思想によってつきあっていたのでなく、ただそのような自分の生をもてあましていた、という一点においてのみ彼らと切実につながっていたに過ぎない。「めし」という、これまた日本の文学史上、ここまでミもフタもないタイトルの小説はないだろうというくらいのネーミングを平然としてしまう、そんな「貧しさ」が骨がらみの生からでも、うっかりと文字に心奪われ、そこから何かを表現することを志すような個体を産み出すに至った。その程度にこの国の近代化はある達成をもたらし始めていた。そのことを深く思う。それまでの、少なくとも漢文脈のリテラシーを共有し、ものを書くに際して雅号を持ち、といった文字の書き手とはまるで違う。その意味では、この国の近代が初めて、その達成の内側から産み出したと言える才能のひとりだったかも知れない。自分の書いたものが戦争に「加担」したかしないか、そのあたりのことから遠いまま、ただ食べるために、生活のためにペンを走らせ続けた営みもまた、この国の近代の「その他おおぜい」の意識の最大公約数だったと言えるだろう。

 残っている写真を見る限り、ちんちくりんの醜女である。しかし、声は実に美しかったという。彼女のさのさに誰もが聞きほれた、というのは、『放浪記』の時代、彼女と同じカフェーの女給をして同じ部屋に住んだこともある平林たい子の証言である。