「宗教」は、なぜ隠さねばならないのか

 辞任した田沢法務大臣立正佼成会をバックにしている政治家である、ということは、今回の一件で初めて知った。いや、そんなもん当の信者の方々はとうにご存じだったのだろうが、でも、こちとら世間のもんにはちっとも知らせてくれてないんだもの。へえ、そうだったの、てなもんだ。

 知らされてないから、こういうことが起こると事態の本質とは別に、ほんとは隠しておかなきゃいけなかったことがバレちゃった、てな感覚だけが強調されて残る。だから、今回の一件でも、世間の最大公約数の理解というのは「ああ、なんか宗教がバックだったんで辞めたんでしょ」にしかなってなかったりする。そりゃまあ、全くの間違いってわけでもないけど、でも、やっぱりどこか違うよな。

 どうして「宗教」方面のことは、ここまでおおっぴらに語っちゃいけないことになっちまってるんだろう。

 とりわけ、政治との関係についてはタブーもいいとこ。この間の選挙以来、新進党創価学会の関係だけはようやく少しは報道されるようになったけれども、それ以外は未だよくわからないまま。その他、たとえばオウムがらみでも、テレビなどに何度も出てきた上九一色村の対策協議会の人が共産党の選挙応援に上京していたことなどはあまり報道されなかったし、その他でも、オウムに反対した地元の住民組織には他の宗教団体や共産党や、何にせよそういう“タバになる”ことの技術を蓄積している方面がからんでいる、と言われている。

 なのに、本当にそうなのかどうか、そこらへんのことがさらりと過不足なく語られることはまずない。あるとしたら、「実はこうこうなんですよ」てな暴露調だけ。そういう雰囲気が世間にあるからおおっぴらに語れない、というのもわかる。でも、ここは無信心なもんで勘弁して欲しいのだが、そういう視線を何とかしようという心意気もないのに妙にタバになることだけ覚えたって仕方ねえだろ、サリン作ってばらまいたりしないからいいってもんでもねえや、と僕などは思ってしまう。

 何かを一枚岩に信じている、ということをおだやかに説明し、表現し、そしてそのことを「あ、そんなもんなの」と受容もできる、そんな関係を作ってゆこうとしないことには、いつまでも「宗教」方面はくらがりにくぐもったまま。 で、本当にそんなんでいいのか、「宗教」方面の人たちって。選挙の時だけタバになって「力」を誇示して、世の中そんなものかも知れないけど、でも、そんなやり方で獲得した「力」でゴリ押しした地位ってのが、あんたたちの欲しかったものなのか。そういう認められ方するために、あんたたちはその一枚岩を信じたのか。そのへんがどうしても納得いかないんだわ。