相撲と「麻薬汚染」

 相撲と「八百長」という取り合わせで組み立てられる「スクープ」の手口は、週刊誌にとってはすでにお家芸。いつ頃からこうなったのか、他に何か目を引くニュースがとぎれて誌面に派手さが少なくなると、必ず登場する今や定番の「ネタ」のひとつではある。また、それだけ需要もあるのだろうし、だからこそふだんから仕込みも怠っていないのだろう。まあ、回転寿司で言えば、一見派手でトクした気分になれるネギトロの軍艦巻みたいなものか。

 だが、今回の「麻薬汚染」、これまでの相撲ネタのお約束である「八百長」系の話とはちと違う気配がある。うまく言えないのだが、なんか「日本」が汚された、「伝統」が傷つけられた、てな方向での無言の憤り調がこれまでになく強いような気がするのだ。例としてあげられたのが外国人力士だったこともあるが、やっぱり「外人」ってのは釈然としないぞ、といった世間に漠然とある“気分”に妙に呼応して、このネタの注目度を実際の価値以上に高めてるんじゃないか。

 もちろん、事実とすれば「犯罪」である。で、その「犯罪」であるというところにこのネタの「正義」もある、と週刊誌の商売人たちは判断している。で、それはひとまず正当である。世間の風向きに鈍いあの相撲協会が珍しく敏感にオタついてるのもまずそこだろう。芸能人であれスポーツ選手であれ、彼ら彼女らは一芸に秀でた人たちであり、その秀でたことでメシを食う立場の人たちである。そのような人たちは秀でていない多数の側から何か圧倒的な「正しさ」、究極の品行方正を要求されるものらしい。

 しかし、これまであった芸能人の「麻薬汚染」にしても、それが現実に「犯罪」として処理されてゆくかどうかは警察の匙加減次第みたいなところがある。相撲協会の捜査依頼に警察が「週刊誌に報道されたからって捜査に動くわけにはいきせんよ」と答えたというのを見ても、そのような「正義」が現実に適用されてゆく時の手続きには何やらさまざまな段階があるらしいことがわかる。週刊誌の「正義」だけで現実が動いているわけでもないのだ。当たり前だが。 マゲとマワシとあの図体にみんなごまかされてるけれども、間違っちゃいけない、相撲とりというのも、近所のコンビニにたむろするアンちゃんネエちゃんと同じ、まごうかたなくこの国に生きるいまどきの若い衆、である。誰も実際には守りようのない不自由な「日本」や「伝統」を彼らにだけ押しつけようというのは、考えればムシのいい話。消費者=観客の立場に居直った横暴ってやつだ。そこらを初手から踏み外した「正義」だけで押し切ろうというメディアの手口は、それ自体新たな抑圧の源になり始めている。