プロ・スポーツ、「玄人」なるや?


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 ヤクルトの日本シリーズ優勝パーティーの馬鹿騒ぎと、大相撲フランス興行の情けなさとは、今のこの国のプロ・スポーツとは「玄人」の誇りの上に自立して存在できるものでなく、下品で不作法なメディアの磁場に巻き込まれたところで成り立つ「ギョーカイ」にならざるを得ないことを、これ以上ないほどはっきりと示してくれた。礼を言う。*1

 もちろん、プロ・スポーツってのはもともと興行の見世物。つまりショウだ。妙な精神主義にだけ傾いてショウとしての成熟を拒んできたこれまでの経緯を思えば、その本質があからさまになったという意味では悪いことでもないのだが、にしても、傍若無人な「ギョーカイ」ノリに鼻面引き回された見世物=ショウってのはこんなにみっともなくなるものかと、改めてあっきれけえったね、あたしゃ。

 だってさ、女性レポーターは単なるミーハーと化してだらしなくはしゃいだあげくプールに放り込まれてマイクを水につけるわ、選手は選手でまさにお約束でそんな馬鹿騒ぎを演じてみせるわ、それを当て込んだカメラクルーはギブミーチョコレート状態で取り巻くわ、あんなものがニッポンのショウ・ビジネスの楽屋裏ならば、そんなもの糞喰らえ、だ。それはフランスくんだりまで行って、興行師であるテレビ局に土俵の外の日常まで徹底的にしゃぶりつくされた力士たちも全く同じ。こんなバラドル扱いのナメられ方されときながら、都合の良い時だけもっともらしく「国技」とぬかすなんざ片腹痛い。同じ「ギョーカイ」主導で「イチロー」なんてけったいな源氏名つけられた鈴木一郎が、しかしおのれの精進とそれによって獲得した「玄人」の誇りとで見事「ギョーカイ」の無礼に拮抗するだけの凄味を備えるようになったのと比べてあまりに情けない。

 このプロ・スポーツと「ギョーカイ」のなれあい構造、わが愛する競馬とて例外ではない。聞けば、なんとヤクルトの野村監督が、今度はJRAのCMに出るという。あの名ジョッキー柴田政人を寿司屋の大将に仕立てたCMを作ってしまうような無礼千万を平然とやってのける「ギョーカイ」のこと、携帯電話のCMでヤクルトの選手総出で学芸会をやった時と同じように、四コマ漫画に描き直された「野村監督」の延長線上にどこかコミカルな感じを、てなことを考えてるのだとしたら、そりゃ大間違いだ。

 僕なら、野村監督を調教師にする。あの無愛想な顔で馬房の馬にブツクサ叱言を言って回る、あるいは、競馬に負けて引き上げてきた馬と騎手に何かひとこと嫌味を言う、そんなところに正しいショウの楽屋裏の凛とした雰囲気を漂わせる、これっきゃない。ひとつお手並み拝見だぜよ、広告代理店のエリート諸君。

*1:ヤクルトの当時の馬鹿騒ぎでは、こんなの椿事も…… www.nikkan-gendai.com