【草稿】解説・岡本嗣郎『男前――岡本集の激闘流儀』



 この本の主人公である山本集さんと初めて会ったのは四、五年前、確かどこかのホテルのロビーだった。

 同席していたのは、ルポライター朝倉喬司さんと、この『男前』を最初に単行本にした南風社という小さな出版社の社長兼編集者であるHさんのふたり。毎日新聞大阪本社の岡本嗣郎さんの筆で山本さんの半生を本にする計画があることはすでに耳にしていて、その日ちょうど上京していた山本さんに打ち合せがてら会いに行く、というのを幸い、連れて行ってもらったのだ。

 吹き抜けのテラスに観葉植物が置かれた、さんさんと陽の降り注ぐ明るい席だった。真っ黒に日焼けした大きな身体に紺色のブレザーを羽織った、まるで発破をかけねば動かない工事現場の磐石のような風貌の人がいた。山本さんだった。こちらを認め「やあ、どうも」と立ち上がったのを見て、大げさでなくビビった。劇画じゃないけれども、構図も遠近法もいきなり無視した渾身のGペン描きが“ぬおおお~っ”と擬音付きで眼の前に立ちはだかった感じ。「雲突くような大男」といった立川文庫調のもの言いがぴったりで、いやもう、何というか、この世のものとは思えない実にものすごい第一印象だった。

 物理的な大きさに驚いたのではない。山本さんの体格は180センチちょっとで90キロ強といったところのはず。僕もタッパは178センチ、ガサもその頃はゆうに100キロを超えていたはずだから、そう見劣りはしなかったと思う。けれども、ことはそんな数字の上の比較などではない。とにかくそういう大きさと共に充実した「力」を伴った生身の存在がそこに確かに“ぬおおお~っ”といる、そのことに理屈抜きに威圧されるのだ。

 「まるで交通違反のような顔」というのは本文中、岡本さんが使っている表現だが、まさにその通り。表情とか内面の気配とかがまるで皮膚に浮かばない、そんなこわい顔だった。

 けれども、型通りに紹介してもらい、「ああ、そうでっか、よろしく」という野太い大阪弁と共に差し出されたグローブのような大きな手は、がっちりとした手ざわりと共に何とも言えない穏やかな暖かさを持っていた。その感覚に、あれ、と思い、思いながらどこか胸の裡でよみがえった不思議ななつかしさの気配に、ちょっと安心した記憶がある。

 握手をしながら顔を会わせた、その山本さんの五分刈りの頭の生え際、ちょうど額のすぐ上のところにひと筋、明らかに何かの傷跡があって、そこだけ髪の毛がなくはげたところがあった。安心したついでに、その傷、どうしたんですか、と尋ねた。

「ここか? ここな、鉄砲のタマがピューッとかすっていきよったんや」

 別にウケようと思ってそんなことを言ったわけではないはずだ。しかし、その言葉を聞いた瞬間、僕は笑ってしまった。

 それは、鉄兜と頭皮のすき間を撃ち抜かれた、とか、飛行服と背中の間を機銃弾がすりぬけていって熱かった、といった戦時中の最前線での体験談などにも通じる、日常の感情の均衡を外れたところに宿る言葉の気配があった。本当にそんなことがあるんかいな、という事実と虚構のギリギリのはざまをぐぐり抜けた言葉だけが持つ、ある種突き抜けた響き。それは必ずこのような平手打ちの哄笑を誘う。ちなみに、この傷跡がつくに至った顛末は本文「大阪残侠編」に記されている。


 同じような、まさにいきなり笑ってしまうしか始末に負えないような種類の感覚がはじかれたように襲ってくる体験は、山本さんの描いた絵を初めて見た時にもあった。

 東京での最初の個展の時だった。原色を基調にした強烈な色づかいで、「ふるさと」とか「夏休み」とか、まるでひと昔前の『週刊新潮』の表紙を飾っていた谷内六郎の絵のような抒情的なモティーフで、山本さんの中に堆積していた原風景がいくつもいくつも、どこか似通った調子で並べられていた。個人としての描き手とその管理の下にあるひとつの作品、といった近代芸術の枠組みに収まり切らない、不特定多数の何か民俗的な記憶の層に食い込んでいるような絵だった。「力」がむき出しでそこに具体的な油絵具の量として盛り上げられ、詰め込まれていることの否応なしの迫力。もちろん、絵について何かまとまったことを言えるだけの知識も感覚も僕は持ち合わせていないけれども、そこにある“絵という形式を借りて凝縮されているもの”が、確かに何かただならぬものであるということだけはよくわかった。そして、山本さんがそのように世の中とつきあい、そのように自分を表現してゆくことを常にしてきた人であるということもまた、どんな言葉を連ねるよりも一目瞭然に理解できた。そして、その一目瞭然さのあっけらかんに、僕は笑った。



 そんな山本さんの波瀾万丈、疾風怒涛の半生を、同じく一目瞭然に文章で描き出したものとして、この『男前』は出色の作品である。評伝でもなし、ルポでもなし、小説でもなし、どう分類すればいいのかわからないが、とにかくひとつの“おはなし”として明確なかたちを持っている。ここに盛られた、本当にそんなことがあるんかいな、と誰もが苦笑しながら首かしげるだろう挿話の数々は、書き手の岡本さんが山本さんとおそらくは全身で共振し、共鳴しながら、その大きな身体から引き出し、紙の上につむぎ出していったものだ。難しいことは抜き。読者にはただその丹精を楽しんでもらえばそれで充分だと思う。

 ここ数年、黄民基『奴らが哭くまえに』、中場利一岸和田少年愚連隊』、梁石日『夜を賭けて』など、ついこの間までのこの国の世間で「男」という表象にどのような内実がまつわらされてきたのかについて、改めて“おはなし”の器に盛り直して示す仕事が続けざまに出てきている。そのいずれもが力作揃い、単なるエンターテインメントという以上に、さまざまな“読み”に耐え得る良質な民俗資料にもなっているのだが、それらの系列にこの『男前』も堂々並べられるべきものだ。敢えて言えば、岡本さんの手によって描かれた山本さんの生それ自体が、個人の埒を超えて、そのような「男」の約束ごとが未だ生きていた“ついこの間のこと”に生まれ育ったわれわれの戦後史に向かって開かれている。だから、今の感覚からすれば荒唐無稽で破天荒な生の軌跡をたどってゆきながら、果たしてどこまでが事実でどこまでが“おはなし”なのか、読み進んでゆくうちに読者は、しかしそのような問いそのものが馬鹿馬鹿しいものであることに、それこそ笑いながら気づいてゆくはずだ。杓子定規な「評伝」やしかつめらしい「ルポ」に、そんな豊饒さは宿らない。

 大阪の名門浪商野球部で張本勲らと甲子園を夢見た「浪商風雲編」から、智弁学園野球部初代監督としての奮戦を描く「智弁熱血編」にかけての溌溂とした語り口などは、そのまま映画にしたいようないい呂律だ。石灰を塗っての薄暮のノックや、「技術より精神」の叩き込み方の挿話など、まさに『巨人の星』の星一徹が生きてそこにいたようなもの。同時代の想像力のありようとして見事なまでに共通している。スポーツとはそのような想像力によって輪郭を与えられた濃密な人間関係の共同性の中でのみ支えられるものだったし、それは別に特別なものでもなく、「男」という性に内在するある種の「力」を確実に発揮させてゆくための仕掛けとして、当たり前に日常の中に埋め込まれてあった。そんな世間のありようを背景に淡路会もあったのだし、何より、「シリアスドラマを生きれば生きるほど、はた目には、その人生はコミカルであり、悲劇でもあった」という山本さんの生もあった。他でもない、われわれの日本とはそんな社会だったのだ。ついこの間までは。


 その後、何かの機会に会うたびに山本さんの表情は穏やかになり、あの“ぬおおお~っ”という感じも薄くなっていった。初対面の時などはいずれ十把ひとからげの世間の連中にどういう風に話をしていいのか、その距離を測りかねているという感じだったのが、その後、「元ヤクザの画家」などという味気ない看板の下、テレビや雑誌などに顔を出し、タレントや芸能人たちとつきあう経験なども重ねてゆくことで、落ち着きも獲得していった。髭を蓄えたその風貌は、画家としての風格と共に、ある枯れた感じすら備わってきている。

 実は今年度、非常勤で行っているいくつかの大学の講義で、この『男前』を学生たちと読んでいる。そのことを山本さんに伝えると、あの大きな顔で「ほう、そうでっか」と言ったその後で、「センセ、それやったらワシ、時間作ってその生徒らに何か話でもしましょか」と言ってくれた。願ってもない話だ。だが、果たして今どきの大学生たちが生身の山本さんの言葉を正面から受け止めることができるかどうか。かつて僕がいきなり襲われたような種類の哄笑ではなく、それこそテレビの額縁に押し込められた痩せた笑いしか引き出せないとしたら……。

 そのことが気になって、この願ってもないありがたい話を素直に実現させていいものかどうか、僕はまだ真剣に迷っている。