パソコンとキーボードのリテラシー

 パソコンが売れているという。この不景気の中ではひとまず結構な話なのだろうが、しかし、みんな本当に使いこなせているのかな、と思う。その程度に、パソコンを含めたOA機器の抑制を欠いた礼賛、とりわけ昨今耳タコに聞かされる極彩色の「マルチメディア」論のうさんくささなどには辟易している。

 僕自身、ワープロはかなり早くから使ってはいるけれども、パソコンの方は未だ使いこなせない身の上。別に必要を感じないから使わないでいるだけの話なのだが、なにせこういうご時世のこと、そんな人間がパソコンについて何か文句をつけると、内容以前に初手からひがみととられて無視される危険性はある。

 それでも、なおはっきり言っておかねばならないことはある。たとえば、キーボードを介して言葉をつむぎ出す、その経験がこれまでにない広がりを伴いながら社会に浸透してゆくことは、われわれ日本人の言語生活にどのような影響を与えるのだろうか。

 ワープロを使ってきた経験から言っても、キーボードでつむぎ出され、電子メディアの中を漂う言葉に「責任」は宿りにくいのでは、という疑いを僕は拭いきれない。つむぎ出す言葉がもたらす効果やその読まれ得る範囲の推測、そしてそのことに対して引き受け得るものかどうかについての内省など、「発言」という行為に本質的に伴ってくるはずのさまざまな「責任」について手もとでコントロールする意志をあらかじめ放棄させるような条件がそこにはらまれているように思えるのだ。

 指先を介してキーボードにポンポンと打ち込まれる言葉は、ディスプレイの上なり紙の上なりで書き手自身を読者とした推敲の過程を重ねて、初めてひとつのテキストとして自分の手もとから手放しても構わないものになり、「私」の領域から「公」の領域へと一歩踏み出す。その一歩踏み出すまでの間には、時間の経緯と共に、言葉を扱う具体的な手作業の連続の中に宿る反省の力もあり得た。紙と鉛筆であれ、キーボードとディスプレイであれ、ひとたび自分で書いた言葉は具体的なかたちを伴いそこに存在し始めた時点から、書いた主体に対する自省を求め始める。「書く」とは、そして「発言」とは、意味の伝達というだけでなく、そのような自省を求めての行為でもあるのだ。

 けれども、キーボードを介して電子メディアの中に生み出されてゆく言葉は、これまでのような「書く」とも「発言」とも違う、それらをコントロールするべき生身の速度、意味生成の呂律を超えた歯止めの効かなさをはらんでいるように思える。

 たとえば、パソコン通信だ。まるで長電話するようにだらだらと半ば自動筆記のようにつむぎ出されるあの言葉の羅列は、そのような自省をあらかじめ引きちぎるような速度を内在させている。自省の回路が働くよりも先に言葉はメディアの中に放たれ、予期せぬ速度と広がりとで縦横に走り回り、その走り回ることの快楽に身を任せることでまた身の裡に麻酔のような効果が生まれる。その自覚すら乏しくなるほどの自意識肥大の無限加速。パソコンの普及と共に急速に広まっているはずのこのキーボードのリテラシーは、これまでわれわれの社会で標準的に想定されていたような言葉と主体の関係を変貌させ、その間に横たわっていた「責任」のありようをねじ曲げ始めてはいないだろうか。

 もちろん、これまで「書く」ことについてまつわってきたさまざまな面倒臭い作法や、そこから発するいらぬ屈託などを乗り越えるという意味では、確かにこのキーボードのリテラシーは大きな効果をもたらしている。それは正しく認めるし、評価もする。たとえば、身体に障害を持つ人々などにとってはこのキーボードのリテラシーが福音となっているだろうし、パソコン通信もそのような意味では十分に役立つだろう。けれども、それら想定されるメリットの部分と全く同等に、それらのメリットを享受するために社会全体が直面させられるかも知れない現実もまた、正確に計測される努力がされねばならないはずだ。

 肉声での対話、面と向かって対峙した上での相互交通の技術も作法も、きちんと保証されていて初めて、それらを超えた言葉の自在性の効果も発揮される。印刷メディアを介した「発言」の位置づけもそのような経緯で歴史的に定着させられ、安定してきた。キーボードとそれに加速され肥大した自意識を介してのべたらにだらしなく放射されるだけの言葉の無政府状態を無責任に称賛してゆく現在の「マルチメディア」論などは、そのような意味で犯罪的な場合すらあると、僕は思っている。

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*1:『正論』(産経新聞社)「批評スクランブル」