それは「詐欺師」ではなかったりする、かも知れない


思い込みのはげしい人、というのがいる。
それも自分ひとりでクラく閉じながら思い込むのでなく、他人との関係の中で明るく開きながらまっすぐ思い込んでゆく。何と言えばいいのか、そんな“全方位全天候型万能社交人”とでも言うしかないようなタチの人間が、世の中には必ずいる。そういう人は案外「商売上手」とか「世話好き」とか呼ばれて、日々の暮らし、等身大のつきあいの中ではひとまず「いい人」だったりする。
詐欺師とは、そういう「いい人」の中にこそ宿るものだと、僕は思う。
詐欺にまつわる資料を読んでいると、それが犯罪の領域に足を踏み込んでゆくあわいのところが実にわかりにくい場合が少なくない。ちょっとした取り込み詐欺程度は言わずもがな、ハナっから騙すつもりで仕掛けたはずの大がかりな詐欺でも、真面目に考え始めると、さてこいつらどこまで本気だったのか、と首をひねるしかないようなものがある。
仕掛けが大がかりになればなるほど綿密に計画を練り、絵図を描く。だが、その綿密さ以前に、自分自身どれだけその絵図にハマってゆけるか、それが問題だ。自分もうまく騙せない奴が世間の他人様を騙せるわけがない。ほとんど異様なまでの「いい人」と化してゆきかねない、日々の関係のあらゆる方向にわたる生真面目で過剰な思い込みというのは、まさにそんな自分自身をまず“型にハメてゆく”ことのできる才能に他ならない。
そして、それはそんな珍しいものでもない。一流セールスマンとか営業の達人と呼ばれるような人の中には、こういう種類の才能と情熱を持ち合わせている人がかなりいるはずだ。これはある種の商才である。いや、もっと言えば、これは街の世渡り一般に必然的にまつわってこざるを得ないような意識の身構え方なのだとさえ思う。
だから、詐欺師は自ら詐欺師と名乗ることはない。それは、サンカが自分たちをサンカと呼ばなかったのとも似ている。別に深いたくらみがあるわけではない。そういうなりわいについての自覚の仕方が違うのだ。何より「詐欺」なんてのは法律用語。彼ら自身が互いを呼ぶにはそんな味気ないもの言いではない、もっと口と耳になじんだ微細なことばがかつては厖大にあったらしい。たとえば、こういう具合に。

いかさまし、ばけもの(化物)、ばかし(化)、おびし(帯師)、かたり(騙り)、かみもの、からす(烏)、かれこれし(彼是師)、じけんし(事件師)、きたし、ぎりごとし(義理事師)、きりも、きんたろう(金太郎)、こうげんし(弘言師)、ごまかし(胡魔化師)、ごまし(胡魔師)、にんべん、しきざうち、じよらう(女郎)、しろ(白)、しろがらす(白烏)、しらさぎ(白鷺)、ぺてんし、もちけん、やりて、おてんきし(お天気師)、だきおとし(抱落)、どさ、どさながし(土砂流し)、ばらながし、もんしょやぶり、ちばし、えんじのす(燕子の巣)、しちやくひ(質屋喰)、おきやし(置屋師)、つかましや、ばかし(化)、のれんし(暖簾師)、やまし(山師)、ほうがくし(方角師)、たらひまわし、たちうをつかひ(太刀魚使)、ぺーぱーし(ペーパー師)、おだいし、がちやし、ひつじつかひ(羊使ひ)、ふだまわし(札廻し)、もじし(文字師)、にんとくし(仁徳師)、へんげし(変化師)、しかおい(鹿追)、とかいし(都会師)、どうかいし(道街師)、おっちょこちょい、どっこいや、もみこみ、たたきし、さわし(詐話師)
――大西輝一『犯罪手口の研究』(新光閣 昭和八年)より

何だこりゃ、と言うなかれ。これら全て、当時使われていた詐欺師の呼び名なのだ。ただし、かっこの中の文字は著者があと付けに置き換えたもの。少なくとも法律の側からは「詐欺師」とひとくくりにされるしかない連中が互いを呼ぶ時に使っていた、いずれ口頭の、だからこそ腹の底にじかにこたえるような、あやしい響きを持つことばたちだ。
もちろん、限られた仲間うちでの隠語めいたもの言いのこと、全てが横並びに使われていたわけではないし、それぞれ意味するところも文脈も少しずつ違う。しかし、ひとくくりに「詐欺師」と名づけるその向こう側に、主に手口と仕掛けとによってこれだけの厖大な“違い”が認知されていた、そのことは確かだ。この時期、すでに彼らの中にも「○○詐欺」てな四角いもの言いが増えてきていたようだが、それは手形詐欺や保険金詐欺など新たに広がった営業範囲でのこと。「○○師」だの「○○屋」という言い方に込められた、なりわい固有の手練手管とそれを支える確かな“個”の感覚は、文字の側からの乾きものの命名/分類システムからは捕捉しにくい、とらえどころのないものだったらしい。
彼らは、騙される側を「椋鳥」と呼んだ。法律的には「被害者」だ。だが、この「椋鳥」たちとて並みの堅気などではなく、いずれ欲の皮の突っ張った手合い。だまされるだけのスキも弱みもあるのだし、また何かのはずみで騙す側にも回り得る。
というわけで、これは現在の、とある訪問販売のベテランのありがた〜いお言葉。

「羽毛布団でも何でもいいんだよ、一回そんな関係で何か品物を買ってくれた家は、その後、何を持ってっても買ってくれるよ」

なるほどね。騙される、ってのは、関係の中での開かれた思い込みに感応してしまうことだというのがよくわかる。マルチ商法なんてまさにその感応系の無限連鎖。ゼニカネはそのできあがった連鎖の上、脹らみながら超電導状態で滑ってゆくわけで、そうなるとどこまでが加害者でどこまでが被害者かわからなくなってくるのがお約束だもんね。
ゼニカネをめぐる環境が変わってゆくにつれて、世間もそうやって“学習”してゆく。だからこそ、時代を追うにつれて騙す仕掛けにも手間がかかるようになるし、時には、準備から実行に至る労力やその間のさまざまなリスクなどを考え合わせると、たとえうまくいったところで本当にペイするのかどうかよくわからないものにもなる。まるでその絵図を思い込むことこそが目的になってしまったような、そんな本末転倒の珍妙な手口が、詐欺をめぐる未だきちんと語られぬ歴史にはたくさん残されている。もともと大和見物の田舎者を相手に奈良で始まり、大阪の梅野由兵衛というろくでなしが広めたとされる「鹿追」など、少なくとも六人がかり、ほとんど街頭劇だ。それは思い込むこと、関係の中で開きながら自らなり切ってゆくことだけが世渡りの術になってしまったような、そんなタチの人間たちの人づきあいの作法が過剰に発熱し、何かの間違いでちょいとあらぬ方へ横転してしまった、そのおもしろかなしい胸騒ぎの痕跡に僕には思える。
だから、この映画の中でも、あたかものっぺりとした「いい人」の典型のように見える床屋の浅田さん夫婦(どうやら大森界隈らしい場所の設定が、これまた実にいい)と、確信犯の「詐欺師」揃い、筋金入りのろくでなしに描かれる飴屋一家との間が、実は一番近かったりするのだ。どこにでもいる「いい人」が自分の意志や思惑とは別に過剰に発熱してゆく、そのあわいこそが、なけなしの世渡り商売に過ぎないものがいつしか「詐欺」になり「犯罪」の側に足踏み入れてゆくあやしい潮目。そう考えれば、ほら、われらが飴屋一家も決して「詐欺師」ではなかったりする、かも知れない。