古書にあらわれたる「芸者」たち


 芸者の本を集めている。

 いらぬ誤解を招かぬようもう少していねいに言うと、芸者を中心としたいわゆる花柳界と呼ばれてきた世界のことを書きとめた本、あるいはそれらの世界も含めたかつての「遊び」の世界の内実を確かめることのできる本、を集めている。

 新刊本ではない。いや、新刊本であっても一向に構わないのだが、残念ながらこのような問いに答えてくれるような本が今どき新刊で刊行されることは少ない。

 ならば、図書館にきちんと収められている本を調べればいいかというと、ことこういう規格外な主題の本はなかなか整理して集められていないもので、たまたまこっちに一冊、あっちに二冊、という形でしか存在していないことが多い。制度的な統計などは調べようもあるし、それはそれでもちろん役に立つのだが、ことそれら統計的現実の間を埋めてゆくような散文的な記述や細部に即した言葉に関して言えば、これはもうある程度までは行きあたりばったり。「効率的な情報検索」を心がけ「論文の生産性」などを考える今どきの“優秀な”大学院生などには、とてもじゃないが耐えられないきわめて野蛮な情報環境との格闘だ。

 いきおい、そのような規格外の「昔のこと」をさぐるためには古本を漁らなければならなくなる。この国の古書市場というのはなかなか大したもので、実際これは世界に誇り得るものだと思うのだが、書物の集積体として公共の図書館に近い役割を担っている。だから、少なくとも「昔のこと」を素朴に知ろうと思えば、既成の図書館を軸にした書物の集積体とそれら依拠した文献検索の仕掛けだけでなく、その外側にあるもうひとつの書物の集積体である古書市場へうまくアクセスすることを考える必要がある。それなしには、決して豊かな「歴史」へとつながってゆくものではないし、さらにそこから先、生きてある生身の人間の内側に蓄積された「記憶」や「感覚」の領域に手足を突っ込む「聞き書き」や「取材」など、なおのことうまくできるものではない。

 「学問」といい「研究」という営みも、突き詰めればしょせん情報収集・検索能力が前提。近年過剰に語られる問題の発見能力や独創性、構想力といった部分にしても、一般に思われているのとは逆に、むしろそれら情報収集・検索能力といったメタ・レヴェルのスキルとからみあったところでしか立ち上がらない。そのような情報収集・検索能力の裏付けなき“独創性”などそのままではただの思いつき、放ったらかせばろくでもない妄想へと脹らみ、いくらでも陰謀史観の培養基になってゆく。学会誌や専門書、折り目正しいとされるメディアだけで構築された狭い情報環境の内側で、それらお約束の情報系をたぐり寄せる、その能力の優劣だけで「情報検索の効率性」を論じるなど、これら規格外の野蛮な情報環境と格闘さぜるを得ない身の上からすればちゃんちゃらおかしい。昨年来ベストセラーになっている『知の技法』にしても、こういう文脈を考慮した番外編というか場外乱闘編がきちんと作られるべきだと思う。

 ただ、データベースとしての古書市場固有の問題というか、特殊性はいくつもある。まず、ここでも検索の仕掛けが悪く言えば原始的、よく言えば人間的。とにかくもの言いとしてでなく現実として、本当に「足で稼ぐ」しかない。先の図書館における散文的記述を検索しようとする時と同じか、あるいはさらに進行した野蛮な事態が目の前に現われる。キーボードを叩いて簡単に「情報」を入手できる、てなイメージだけをふんだんにばらまかれた今の社会に当たり前のように安住している意識にとっては、この古書市場のアクセスのし辛さ、検索効率の悪さというのは、いきなり熱帯雨林にほうりこまれた白人植民者のような、それこそ『地獄の黙示録』並みの恐怖ですらあるかも知れない。

 さらに、古本という資料はその出会う場所がミもフタもない「市場」だから、基本的に一期一会。一度出会ったからと言ってまた次に出会えるとは限らない。出会った時に買って所有を明確にしておかなければそれっきりになることがまずほとんど。それに、こういう花柳界関係というか、オンナがらみというか、下半身方面というか、そのテの本は古書市場でも伝統的に収集家が多いジャンルらしく、いざ出会ったところでなかなか結構な値段がついてたりする。

 古本の収集家たちの横のつながりがもっと活発になって、そのへんの本ならどこそこの誰それが結構持っているよ、といった情報がおおっぴらになればいいのに、と思う時もないではない。だが、じきに、いや待て待て、と思い返す。これはそのような検索についての仕掛けがおおっぴらでないからこそ密かに、自分ひとりの足と鼻とでゆっくりと探し当てる、そんな愉快もあるわけで、それこそ電子メディアのデータベースか何かでたちどころに全国の古本所蔵関係が検索できるようになればなったでかなりうっとうしいものだろう。何より、収集家の立場にしてみれば病気でもして倒れた日には、「市場」の論理に忠実な古本屋がたちどころに殺到、直る病気も直らなくなる。今でさえそのような事態は起こっているのだから、やはり、ゆっくりと時間をかけて構築されてゆく情報の織物をいつくしむ、そんな態度で「歴史」に迫るぜいたくを愉しむしかないだろう。もちろん、今ある制度としての「学問」からは、そのような悠長な態度はますます片隅に追いやられるようになっているのだが。

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 それでも、ぼつぼつと自分の速度で集めているうちに、いろいろとわかってくることもある。

 昭和十年に全国同盟料理新聞社から出された、『芸妓読本』という本がある。言わば、当時の芸者のための教科書、テキストと考えてもらえばいいだろう。

 面白いのは、このような教科書の類が当時すでに全国でいくつも作られ、実際に使われていたらしいことだ。どうして当時こういうものが必要になったのか。そこらへんの事情もまたゆっくり考えてみる必要があるのだが、ひとまずまえがきに当たる部分に編者の三宅孤剣という人が書いているところによれば、このような同工異曲の芸者向け教科書として、名古屋毎日新聞社発行の『芸妓大学』(昭和九年三月発行)、神戸の連合検番事務所が出した『芸妓リーダー』(昭和九年六月)などに気づいたという。見れば、どれも同じような構成、同じような内容。こりゃもとの種本があるらしい、とにらんだ三宅氏、大阪南地の大和屋という、おそらくは当時名前の知られた老舗のお茶屋さんの主人坂口裕三郎という人に手紙で問い合わせたところ、ここで作られた『芸妓読本』が体裁も内容も名古屋や神戸で流布していたものとほぼ同じとわかった。これは昭和五年十一月に『南地の皆さんに知って頂かねばならぬ事』と題して出されたものだったが、全国各地からわけてくれという希望が殺到、何度も増刷することになった。その他、調べてゆくうちに、広島は呉の検番からも同じような本があることを知らされ、こちらは同じ『芸妓読本』という名前ながら、「四六倍版仮綴のザツなもの」で、しかし内容はやはり大阪の『芸妓読本』の引き移しだった由。

 それまでにも、川村徳太郎『新橋の芸妓衆へ』(昭和四年二月)熊本料理屋組合『栄行く道、熊本花柳界の栞』(昭和九年一月)柳橋三業組合『柳橋三業組合懇談会記』(昭和九年十月)などがあることがわかった。さらにさかのぼれば、直接芸者に対する啓蒙書ではないものの、矢野恒太『芸者論』(明治四五年六月)、林田亀太郎『芸妓の研究』(昭和四年五月)、覆面冠者『芸者怪物論』(大正二年五月)、松川二郎『全国花街めぐり』(昭和四年六月)といった本が出されているのだ、と三宅氏はウンチクを傾けてくれていて、これは古書市場を散策するためのロードマップとしてもありがたい。なにせ、「全国料理業同盟会常任監事として関係して以来、今日まで約三十年間、全国を股にかけて花柳界の中で働いて参りました」と胸を張る彼のこと、逆算すれば明治四〇年頃、芸者と花柳界に関わる「遊び」が最も華やかに華開いた時期から、カフェーの出現や女優の登場などで衰退してゆくまで、長年言わば業界新聞で仕事をしてきた現場の人だけあって、なかなかに見識も高い。

「芸妓といふものは三味線を弾いて、唄って踊るものだ、それが芸妓の芸術だ、ぐらゐにしか考へてゐない芸妓が沢山にある。時代の風潮がどうであらうと、現代人の関心がどうあらうと、そんな事は一向考へてみた事が鳴く、昔ながらに只々、三味線芸術にのみ精進してゐればよい、それが江戸前の芸妓だと思って、現代人とは掛け離れた過去の世界に住まはうとしてゐるのだから、日に月に芸妓の存在価値が消滅して行くのは当然である。


 昔の芸妓といふものは、そんなものでは無かったと思ふ。その時代時代の空気に生きて、常に尖端を行ってゐたらしいし、社交機関としての機能を全ふし、また享楽機関としても時代人に充分の満足を与えてゐたやうに思ふ。芸妓の芸といふものは、或る一定の型に填めて仕舞うべきものではなく、水が方円の器に従ふ如く、時代々々の姿によって、芸妓の芸もサービスも変化して行くべきものだと私は思ってゐる。そこに他の芸術家と異なった芸妓の面白さがありそこに芸妓の生命があるのだ。」

 もちろん、こんなことを考えていちいち芸者遊びをしていた連中など少数派、だからこそそれは「遊び」の中核たり得たのだと思うのだが、しかし中にはこのような言葉にし、文字に移し変えて自ら無意識に行なっている「遊び」の領域にまで思考を及ばせようとした人たちは出始めていた。規格外の「歴史」にとっては、彼らのような知性こそ貴重な先達なのだ。