書評・山口昌男『「挫折」の昭和史』(岩波書店)

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 不良の書いた歴史書である。

 イデオロギーに縛られたまま身動きとれなくなり、どんどん世間離れしていったそこらの歴史学者たちとは根っから育ちが違う雑食性の知性。「近代日本の歴史人類学」という“いかにも岩波”なオビの惹句も、その知的不良の身のこなしで、ひからびた歴史に活を入れるための旗印と読むべきだ。

 本文は二段組四二〇ページ。大著である。だが、この「量」こそが力だ。初出連載時は良く言えば万華鏡、悪く言えば手当たり次第なディテールとエピソードのつづれ織りとい
う印象があったのだが、こうして一冊にまとまると、なるほど強靭な背骨に貫かれた仕事であることがよくわかる。

 その背骨とは何か。「知のネットワーク」と著者は言うが、ちと軽薄に響くので言い換えよう。この国の近代がある達成をもたらした一九二〇年代から三〇年代、工業化と大衆社会化の進行に伴いさまざまな場所で起こり得た知性の相互交流、それこそが背骨だ。それは昭和という時代が大正から受け継ぎ、しかし「より良質の知的・芸術的可能性の開花が妨げられた」「知的感受性の歴史の匿れた水脈」である。書名の「挫折」もここに由来する。

 狂言回しは甘粕正彦石原莞爾。彼らの軌跡を糸口に、さらに具体的な人間関係を縦横にたどって「昭和」の時代精神を探ってゆく。媒介するのはサブカルチュア。満映から民族学民俗学、浅草のモダニズム、開花する商業デザイン、スポーツのコスモポリタニズム……そんな知性のソリダリティにこの著者は立ち戻った。徹頭徹尾「雑」であること、しかしその帰結として「個」であること、その気構えに宿る精神こそが「知」である、と。

 いわゆる歴史書を読み慣れた眼にはいかにも迂遠で散漫に映るかも知れない。だがこの迂遠さこそが、資料の膨大さと文字以外の資料の広がりとに立ち尽くす近現代史研究に希望を与える。冷戦崩壊後の「歴史」の編み直しのためにも、広く読まれるべき労作と思う。