解説・赤松啓介×上野千鶴子『猥談』


 いやあ、長かった。 やろう、ということになってからなんと五年。別にサボっていたわけではないことは、 版元である現代書館と担当編集者の村井三夫氏の名誉のために言っておきたい。結構早い うちにゲラにはなっていた。そのいざゲラになってからが長かったのだ。

 なぜって? 何か手直しがあれば、と型通りにゲラを手渡したが最後、赤松さんは徹底 的に書き込み、書き直し、おそらくはそのために遠い記憶の底を改めて掘り返し、資料に もあたり、これなら初手から書きおろしを二冊ばかりお願いした方がよかったかも、とこちらが後悔したくらいの膨大な労力と時間をかけて原稿を整えていったのだ。その書き込みのすさまじさは、組まれた活字のまわりをびっしりと埋めた手書きの文字がまるで額縁のように見えた、と言えば少しは察していただけるだろうか。しかもそれがどのページにも延々と続く。本書の第一部の赤松さんの「発言」の多くは、そのような経緯で刻みつけられたものだ。そして、高齢の赤松さんからそれだけの力を引き出し得たのも、上野千鶴子という同時代の知性のプレゼンスだと思う。これは世間並みの世辞ではない。彼女が赤松啓介を本気にさせたのだ。

 ともあれ、どんな機会であれ、おのが言葉を活字にすることについての責任感の強さと、そのための作業に赴くエネルギーの大きさとにわれわれ凡人は改めて驚き、敬服したのだが、凡人どもがうっかり敬服しているうちにどんどん時間は流れ、その間徒手空拳のもの書きである赤松さんは口に糊するために新たな本も書かねばならず、かたや対談の相手だった上野千鶴子は東西対立崩壊後のドイツに行ってまた帰り、そうこうしてるうちに職場まで移って天下の東京大学に根城を構え、あげくの果てには阪神大震災まで起こってしまって神戸在住の赤松さんは住む家までなくなってしまい、ああ、こりゃもうこの本もあきらめた方がいいのかも、と一時は途方に暮れるような事態だったのだ。

 しかし、とにかくこうやって『猥談』は世に出た。出すことができた。そのことを、今この本を手にとっていただけた読者の方々と共に、素直に喜びたい。首謀者のひとりとして例によっていささか風呂敷を広げさせてもらうならば、これはこれまでの赤松さんの著作、とりわけ性とセクシュアリティの近代をめぐる民俗学的な仕事の最も重要なエッセンスを濃縮して詰め込んだ一冊である。読者それぞれの読みの水準に応じてさまざまな問いが発見できるはずだし、それは今ある近代史や現代史の枠組みに収納してしまえるような痩せたものではない。「猥談」と正面切ってうそぶくのもその自信ゆえだ。
 今や猥談にも質はある。下半身をめぐる問いを単なるスケベ話の水準でかたづけても、下半身のことを取り上げるだけで意味のあった状況はとうに過ぎた。隠されてきたこと、語られてこなかったことを顕わにし、語る、その心地良さに身を委ねているだけでは〈そこから先〉はいつまでも見えてこない。それどころか、暴露だけが目的化してゆく頽廃だってもういくらでも転がっている。隠され、語られてこなかったことだからこそ、ここまで本腰入れて正面から全力で語り尽くそうとする、知性としての健康な覚悟がもうすでに必要な状況になっているのだ。

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 もとになった対談は、一九九〇年●月●日、神戸市内にある赤松さんの自宅の二階で、午前中から深夜に至るまで十一時間あまりにわたって行なわれた。その間その場にいた者は皆シラフである。途中水入りをして、近所の市場であわてて買ってきた寿司を少しつまんだ程度で、食事らしい食事もほとんどとらなかった。それくらい場は白熱していたのだ。

 赤松啓介上野千鶴子をぶつけようという試みは、一九八九年の十二月が最初だった。当時、現代書館から出されていた雑誌『マージナル』五号(一九九〇年五月)に掲載された「対談・夜這いにみる近代の豊かさ」がその時の記録である。同じ号に不肖大月が「観戦記」を書いている。引用する。

 「いいファイトだった。看板倒れになることがほとんどの異種格闘技戦としては、まず充分にスリリングだったと言っていい。けれん味なしの正攻法、エール交換もそこそこに大文字のことばによる高々度からの絨毯爆撃を繰り広げる上野千鶴子に、全く動じない赤松啓介翁。こりゃ噛みあわないかな、という思いがちらりとかすめる。が、膠着小一時間、打ち疲れた上野がたまらずことばの高度を下げ始めたところでにわかに状況が動いた。掩体壕にもぐり込み爆撃を避けていた赤松翁が、上野が射程距離に入るのを見定め、おもむろに反撃の姿勢をとるのが見えた。
 あ、くるな、と思った。ほぐれてくると翁の動きが軽くなるのは、去年の春、赤松翁を東京に呼び連続講演会を開いた経験からよく知っている。頬が紅潮する。表情がほどける。ひたすらディテールとそのたちうごめく場に焦点を合わせてゆく作法。どこまでも具体的なことばを並べ、見たもの、聞いたものの場所から微塵も離れないまま、あれよあれよという間に上野千鶴子を自分の土俵にひきずりこむ手際のよさはさすがに圧巻だった。
勝てないが、決して負けない、ということばの力強さ。こうなるとあとはもうズブズブの接近戦。「夜這い」について語ってもらう、というのが一応の設定だったのだが、とても活字にできない玄妙な技術論、感覚論までぶち込んで煮えたぎる場にギャラリーまでもが盛り上がった。」(「勝てないが、決して負けないことば」)

 この時の手応えがあったからこそ、本書のリターンマッチが可能だった。この後改めて訪ねた僕に、赤松さんは「あら、おなごとしてはなかなか優秀やな」と言っていた。対話するに足る相手として上野千鶴子を認めた証拠だ。

 赤松さんと出会ったのは、もともと一九八八年三月、国立歴史民俗博物館の共同研究で、話を聴く機会があったのが最初だった。戦前に書かれた『民俗学』(一九三八年 三笠書房 現在は明石書店から復刻)で、民俗学まわりの人々には知られていたものの、はなはだ失礼ながらご存命とは当時思っていなかったし、何より、「書かれたもの」よりむしろ生身の語りこそが本領の知性とはその時実際に接するまで知らなかった。
 さっそく翌八九年の春、仲間うちで費用を出し合って東京にお招きし、「非常民は自転車に乗って」と銘打った連続講演会を催した(一九八九年四月一三日、一五日、一八日 東京・早稲田奉仕園)。レセプション代わりに阿部謹也網野善彦、山折哲夫、佐藤健二という豪華メンバーでシンポジウムも開き、その後連続三回にわたって赤松さんの話を聴くという仕掛け。ろくな情宣もできなかったのだが、のべ四百人あまりの人が集まった。
 その頃から、明石書店から復刻も含めて立て続けに著作が刊行され始め、『AERA』(朝日新聞社)の「現代の肖像」にまでとりあげられたりした。九●年には、地元での長年の活動に対して神戸新聞社から「のじぎく文化賞」も贈られ、考古学から民俗学にまたがる赤松さんの仕事は齢八十歳を迎えてようやく世間の評価を得るようになった。

 もちろん、これらはとても喜ばしいことだ。だが、柳田国男とその指導の下に展開してきたこの国の民俗学が等閑視してきた性の問題、差別の問題、階級の問題を積極的に扱い、そのことで柳田流の民俗学を批判してきた、といったこれらの一般的な「評価」とは別に、最も本質的なところで、赤松啓介の仕事の意義はその上演的な身体を介して「調査」する主体の問題を提示しているところにある。かつてマルクス主義者であったことなどに過剰な意味を求めると、むしろその本質を見誤ることになるだろう。「私は人間が、人間を調査する場合に、絶対に間違いなくできるなどと信じない。どのようにやってもいろいろと間違いは起こる。調査側でも、被調査側にも、いろいろと違い、意識したウソもあれば、タテマエのこともある」赤松啓介「書簡論集」一九八二年 ゼロックス複写による私家版)という認識から、「私たちがほぼ事実と認めることを積み重ねるほかはない」という、人と社会についての学問にとっては最もしんとした地点にまで到達した赤松さんを、半世紀以上昔の古証文だけで「評価」するのは、在野の知性であることを貫いてきた赤松さんにとっていかにそれが喜ばしいことであれ、やはり同情の薄いやり方だと僕は思う。
 ともあれ、ヘアヌードなど未だもってのほか、AVにしたところでここまでおおっぴらでもなかったわずか五年前、大震災に見舞われる前の神戸の一角のささやかな六畳間でこのような白熱した対話が延々と行なわれていた、そのことに想いを馳せながらゆっくり楽しんでいただきければ幸いである。

 赤松さん、上野さん、そして現代書館の村井さん、本当にご苦労さまでした。