文化遺跡としての宇宙@草稿

なんか知らないが、またぞろスペースシャトルがどうのという話になっている。

「宇宙」という言葉に一番敏感に反応できる感覚を刷り込まれているのは、おそらく今の三十代じゃないだろうか。だって、なにせ「科学の子」で、「宇宙旅行」が自由自在にできて、「二十一世紀」には「宇宙ステーション」がいくつもできて、

かの手塚治虫の『鉄腕アトム』に、そこで生まれた子供が「人工衛星の子供」と呼ばれて学校でいじめられて、てな話があって、どこかで貧乏な階級という感覚で描かれていた。同じことは、北海道だったか、ヌウという馬の形をした宇宙人とつきあうことで怪力を持った団栗太郎という少年を描いたものがあって、そこでも「宇宙」は身近だった。実際にはほとんどわけのわからない領域だったのに、子供のまわりには「宇宙」についての情報が「科学」を媒介にしてあふれ返り、「科学者」という得たいの知れない仕事が何か輝かしいものとしてイメージされていた。第一、「宇宙服」ってのが何とも不思議で、ヘルメットってのも不思議で、そういう「宇宙っぽさ」の全てがカッコ良かったのだ。フルフェイスのヘルメットをやたらかぶってみたかったのも、レザースーツを着てみたかったのも、どこかで「宇宙」が入ってたからかも知れない、と思い返したりする。

和田さん、だっけ? 小さい頃から「宇宙」にあこがれて、てな「夢」のサクセスストーリーの陳腐さは許すにしても、予定通りに衛星を回収したり、朝メシにクッキー食ったり、そんなものいちいちなんでニュースになるんだろ。同じことは「古代」モードにもあって、きっとどれも日々の生活に直接関係ないから遠慮なく騙れるんだろうな。それに、自前のロケットじゃないわけだから、万一何か事故があっても、「もんじゅ」みたいに担当者が自殺するほどの大騒ぎをする必要もないし。 興行のネタとしての「宇宙」ってのは、そろそろもう神通力まるでない状態になっているはずだ。なんか「巨人」とか「横綱」とかとよく似た「高度成長期」モードの文化遺跡みたいになっているんじゃないか。