文化遺跡としての宇宙


 日本人宇宙飛行士の若田さんが無事飛び立ったそうで、まずは「そりゃご無事でご帰還を」としか言いようがないのだが、しかし、この「宇宙」というもの言いにそこはかとないわびしさを感じるのは、さて、僕だけなのだろうか。 

 別に盛り上がってるところに水をさすつもりはないけれど、世間の耳目を集める興行ネタとしての「宇宙」ってのは、もうとうに神通力はなくなってるはずだぞ。なんかさあ、「巨人」や「横綱」や「ホームラン」などにも通じる、六〇年代・高度成長期の言葉の文化遺跡みたいな響きさえ伴い始めてるように思うんだけど、どんなもんでしょ。 

 「宇宙」という言葉に一番敏感に反応できる感覚を刷り込まれている日本人は、おそらく今の三十代のはずだ。他でもない、僕がそうなんですけどね。なにせ育った時にはマンガや子供雑誌などで、「二十一世紀」には「宇宙ステーション」がいくつもできて、「宇宙旅行」だって自由自在で、ああ、バラ色と呼ぶのもこっぱずかしい絢爛豪華で満艦飾な「未来」が身のまわりに日々全面展開で繰り広げられていたのだからして。

 そう、あの頃「宇宙」は身近だった。実際には謎の領域だったことは今も昔も同じはずなのに、当時の子供たちのまわりには「宇宙」についての情報が「科学」を媒介にしてあふれ返り、しかもそれはまぶしいほど「正義」だった。おかげで「科学者」てな得体の知れない仕事までが、さまざまなボタンや計器のついた機械に囲まれた白衣姿と共に何か輝かしいものとしてイメージされていた。で、とどのつまりがオウムのサティアンだったりするのだから、ほんとに浮かばれない。

 今やもう「宇宙」は「冒険」の手ざわりを持てなくなってしまった。あふれる知識と情報は、「宇宙」からかつての輝かしさを奪っていった。だから今、若田さんを語るもの言いにはかなり無理が伴う。小さい頃から「宇宙飛行士」にあこがれて、てな“おはなし”の陳腐さは辛抱するにせよ、出身地の小学生や総理大臣と話してもらう、ってセンスもまたどこか六〇年代臭いし。何より、予定通りに衛星を回収したり、朝メシにクッキー食ったり、そんなことまでなんでいちいち大騒ぎするほどのニュースになるんだろ。第一、ありゃ人んちのロケットに乗せてもらってるわけで、自前の技術の成果という「正義」すら伴えないときてる。

 きっとまた各地を講演させたりして商売にする連中がいるんだろうけど、その“おはなし”が今の世間にどのように響くのか計測もせず、「宇宙」を「子供」とコミにして「未来」風味にまとめるお手軽なやり口に安住している限り、その「宇宙」体験も本当に役に立つように社会に蓄積されることはないと思う。