横山やすしが死んだ。
スポーツ紙などは「天才漫才師」てな見出しを使って一面で報じていた。しかし、今やお笑いの界隈で平然と「天才」を自称しているのは、他でもないダウンタウンの松本仁志である。
最近、自分たちの番組で「やすしくん」という茶化しのコントをやっていて、それに対してさすがに一部で批判が巻き起こっていた。残念ながらテレビを持っていない身なので、僕はまだその「やすしくん」を見たことがない。そのうちどこかで見とかなきゃ、と思っていたら、なんと今日の夕刊によれば、ご本尊やっさんの死と共にコントも打ち切りだとか。おいおい、そりゃ話が逆だろ。おのれを「天才」だって言うのなら、こういう時こそ全力できっちり茶化して、今や自分が乗り越えたと思うそのひと世代前の天才を送ってみせる、それこそが天才ならではの供養ってもんじゃないか。
巷間言われているところでは、かつてまだ新人当時あるコンテストか何かで自分たちの漫才を審査員だったやっさんに「チンピラの立ち話やないか」と手厳しくやられたことがあって、「やすしくん」のコントはその時の意趣返しだという話になっている。なるほど、そういうこともあったのだろう。昭和初年、漫才がそれまでの雑芸の百貨店のごとき状態から今のような対話中心に作り直されていった経緯はそういう「立ち話」を平然と舞台に乗せてゆく過程でもあったことを、はて、やっさんは知らなかったのかな、と思ったりするが、すでにその頃からやっさんの勘違いは始まっていたのだろう。
「ほんまの俺をきっちりわかってくれる奴なんか、おらへんのじゃ」
きっとやっさんはそう思っていたはずだ。
「ごじゃごじゃぬかすならいっぺん漫才させてみい、俺が一番なんや」
とつぶやき続けてもいたはずだ。
そんなやっさんを「気の弱い人間だ」と言うことは、おそらく正しい。ただ、と同時に、そのような気の弱い人間がなぜそんなに肩肘張ってツッパって勘違いしなければならなくなったのか、その理由というのもある。だが、往々にして世間は現われとしての勘違いだけを見て、その理由の方を見ようとしない。その見ようとしないということが、気の弱い人間にとってはまた何より辛いことになり、その辛さは新たな肩肘の張り方、勘違いの悪循環へとつながる原動力となってゆく。
「本当の俺をわかってくれる奴なんかいない」という、おそらくは「有名」であるがゆえに避けられないさびしさは、しかし決して今のダウンタウンと無縁のはずはない。自称「天才」の松本仁志もまた、同じ「天才」やっさんの勘違いを教訓として学ぶべきものはたっぷりあるはずだ。
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*1自分が「有名」になってゆくつれて意識が変容してゆき、それまでの自分の中のある部分がどんどん極端になって依怙地に凝りかたまってゆくというのは、いわゆる「有名人」たちの職業病かも知れない。まわりの視線を意識し、その状況に気配りできるだけの繊細さや感受性があるからこそ、ある種の暴力性が宿り始める。それはやっさん自身が生まれ持った性格であると同時に、まわりとの関係性に規定されて作られてきている
*1:原稿は以上。以下は草稿段階で落とした部分