公務員、という仕事

 「公務員」というのは、どうやら昨今一番の仇役だったりするらしい。

 とにかくこういう不景気なご時世、「親方日の丸」の安全パイこの上ない仕事である、てな具合に世間からは見られているようであります。

 もちろん、「公務員」と言ったってその中身となると実は千差万別。地方公務員と国家公務員とではかなり違うし、いわゆる現業と事務職の間だっても天と地ほどの違いがある。それはたとえば、営業も総務も工場も「サラリーマン」てなもの言い一発でひとくくりにして勤め人一般を表現することがあまりに荒っぽいのと同じことだと思うのだが、しかし、少なくとも倒産はまずないし、リストラなければコスト意識もサービス業としての自覚もあまり持たないままでも何とかやってゆけるらしい、という意味では、ケッ、おめ~らは楽でいいよなあ、といった捨てせりふ気分を世間に発動させてしまう理由というのもわかるし、それはそれでもっともだとも思う。

 でもなあ、はばかりながら不肖大月、いくら看板は学者稼業の渡世とは言いながら、皆様の税金がおのれの給料になっているという意味においてはひとまず同じ公務員の範疇に入る職業に従事する立場でもありまして、ここまで一律に「公務員」がロクでもない奴だ、どうせおめえら気楽な稼業でええ頃加減なことをやってやがるんだろう、てな具合に思われているとなると、全くごもっともと思いながらも、しかし、ちと釈然としない部分もないではない。*1

 いやね、そりゃもうちょっと効率的に動けないんかなあ、とか、少しはコストってのも考えたらどうなんかい、とか、ムカッとくることはおのれの職場をを見回してさえもいくらでもある。また最近、住専問題などで心労の多い大蔵省の銀行局あたりの担当官などがほとんどプッツン状態になっている、てな報道もちらほら出始めている。もちろん、風聞の域をでるもではないし、何より今どきのこの国のメディアのこと、他人へのやっかみ一発で些細な情報を増幅してゆく稼業の手癖ってものもいくらでもあるはず、という程度の斟酌はしなきゃいけないことは当然にしても、やっぱり、これまで当たり前にやってきて、当たり前だからこそ深くそのことの意味を考え直したりしなくてすんできた「公務員」の約束ごとが、もはやそのままでは通用しない部分が徐々に増えているのだろうとは切実に思う。

 問題は、だったらこの先、本当に役に立つ「公務員」の当たり前をどのように作ってゆくか、だろう。一律に「いいことしやがって」のやっかみの視線だけでは前向きではない。情報化社会における世間の視線の強制力ってのは、きっとそういう具合に使うべきものだと思うんですけど。

*1:まだ国立大学共同利用機関の文部教官助教授という身分だった頃である、為念。