インターネットの「自由」

 近いうち必ずやられるぞ、と思っていたインターネット上でのわいせつ画像摘発がさっそく行なわれた。予測していたよりも動きが早い。ということは、それだけこの国のインターネット騒動とその背景にうごめく電脳詐欺は、すでに警察が見て見ないふりできないほどに熱気を帯び始めているということなのだろう。 でもさあ、商売でもないのに電話線とコンピューターを介してスケベな絵や写真を世間にじゃんじゃん垂れ流す楽しみって、一体なんなんだ?

 昔ながらのエロ本(こりゃもう死語ですな)稼業ならまさにメシのタネとしてスケベを扱うわけで、商品としての質が厳然と問われてくる。昨今のAVにしても、作ってる側にはそういう稼業としてのリアリズムは必ずあるはずだ。「水商売」であり「クロウト」であるような商売の領域。わいせつとはそのような商売の領域によってコントロールされ、その限りにおいて世間の片隅に居場所を与えられてきた。だからこそ、そこには質の論理もまた宿り得た。

 けれども、このインターネットのわいせつ画像の垂れ流しというのは、どうもそういう「商売」のリアリズムからは遠そうなのだ。もちろん、新しいメディア上の開拓者たちとは昔ながらのあやしい稼業に手を染める方々なのは時代の常だけれども、しかしそういう稼業人たちとは別に、「商売」から遠い、言わば「趣味」一発のスケベ垂れ流し症患者たちが大量発生している気配も確かにあるのだ。

 わいせつはもはや「趣味」になった。「趣味」であることだけが突出してむき出しになってしまうような事態が平然と出現するようになった。そして、むき出しになってしまった分、それは「趣味」本来の「私」の領域にとどまれるはずもなく、同じ「私」の仮面をかぶったまま実態だけはどんどん「公」の領域ににじみ出し、あれよあれよという間に増殖してゆく。さまざまな「趣味」の「私」が自覚もないまま広大な電脳世間を覆い合ってゆく。まるで『ゴーストバスターズ』のマシュマロ・マンだ。それでゼニ儲けするわけでもなく、それ一本で食うしかないような切羽詰まった境遇にあるわけでもなく、ただ何となく「面白いから」「やってみたいから」の欲望一発でやれてしまうわいせつの垂れ流しがローコストで可能になる悪夢。今、コンピューターネットワークとやらの中で起こり始めていることは、きっとそういう不気味な部分を含んでいるのだが、それをバラ色にしか語らない、語れないブッ飛び具合もうまい具合にまた加速されている。「公」の領域での「表現の自由」を実現するためには「私」の領域でのそれを自分たちの手できちんと統制しなければならない状況は、もう現実のことになっているのだと思う。