「危機」を煽り立てるもの言いというのが「知性」の証明であり続けてきた歴史というのが、どうやらこの国にはある。ジャーナリズム然り。学問然り。思想や言論といった分野もまた然りだ。
「知性」とはそのように世の中の「危機」に対して誰よりも先に気づくべきものであり、またそのような自覚があればこそ「危機」を認識しようとする責任感も宿り得ていた。何より、世間の側も「知性」にそのような炭鉱のカナリアのような役回りを担わせてきていたし、互いにさまざまな勘違いや思い込みはあったにせよ、世の中の約束ごととしておおむねその関係の中でうまくやってきてはいた。
だが、一年前の地下鉄サリン事件は、そのような「知性」と世間の間の約束ごとがすでにこれまでのような幸せな許容度と共には成り立たなくなっていることを最終的に暴露した。そのような「危機」を煽り立てるもの言いが当たり前になり普遍化していた結果、「今の世の中は間違っている」という漠然とした意識だけが肥大し、半ば常識となって広い範囲に共有されてきていたことが露わになった。
それは一方で、現実との関係性を見失ったまま「あるべき世の中」を容易に夢想する手助けにもなっていた。地下鉄サリン事件を頂点とする一連の事件を、そのような「あるべき世の中」を単純に、しかも短絡的に想定して煮詰めていった果ての無惨なできごとの歴史の最期の姿としてとらえれば、これまでのように「危機」を煽り立てるもの言いだけを擁する「知性」の終焉もまた明らかだろう。
どんなに大変な問題が起こっても日本人はすぐに忘れてしまう、と言われる。なるほど、確かにわれわれは忘れやすい。そのことを日本文化の問題にまで広げて語ることさえある。だが、忘れないことが常に善であるわけがないし、まして今のような社会では、メディアの舞台のできごとを全て忘れず記憶しておこうと考えること自体、また新たな強迫観念を植えつけることにしかならない。
といって、よく言われるように「過剰な情報」がいけないのでもない。問題なのは、われわれがその「過剰な情報」をさばいて整理し、社会の水準できちんと記憶しておく仕掛けを持ち合わせていないことであると共に、よりよく忘れてゆくための賢い手立ても知らないことだ。われわれはわれわれの社会の水準で何を記憶し、何を忘れていいものとして判断するかについての穏当なものさしを未だに持ち得ていない。
逆説的な言い方になるけれども、いたずらに「危機」をあおり立てるこれまでの「知性」のもの言いこそが、そのような「忘れやすさ」を準備してきた面がある。地下鉄サリン事件を境にして、そのことに対する真剣な反省が求められ始めている。「これは大変なできごとなのだ」という「危機」の文法を媒介にしか世間と関わってゆけない不自由の下では、できごとはわれわれ自身の中で再び引用し、考える材料に転化してゆくだけの作業をくぐらないまま、ただ「大変」というスタンプを押されただけでじきに忘れ去られてゆく。
しかし、そのような忘れ方が深まってゆく一方で、これまでと異なる記憶と批判の力もまた、かすかにではあるが準備され始めている。そんな気配も、実はないではない。
たとえば、この一年で本当に活字の本が売れなくなった。それは、そのようなこれまでの「知性」のモードについての違和感が具体的な消費行動の水準とつながって現実のものとなってきた現われかも知れない。あるいはまた、住専の問題や薬害エイズ訴訟の問題など、どう考えても納得いかないという「気分」と、その「気分」を説得する言葉も構えも持てない政治の貧血状態もこれまでになくはっきりしてきた。それは「危機」のもの言いにあぐらをかいていつか世間との約束ごとを自ら放棄した「知性」の自閉と同じことだ。もちろん、その価値判断の基準は何か形あるものとして外に表明されにくいものとなっているし、だから明確なスローガンとはなってゆかない。ゆえにそれは単なる「気分」として、あてにならないもの、信頼するに足らないものとしてだけ語られるきらいがある。
だが、敢えて言う。「気分」はすでにある部分でのわれわれの現実なのだ。少なくとも、その「気分」を新しい常識を作ってゆこうとする時の重要な素材として繰り込んでゆく穏当な手立てをどこかで講じようとしなければ、われわれの社会もまたたかだかその程度のものでしかないことになる。「知性」と世間との間の約束ごとを回復すること。そのためには、この「気分」に形を与え、新たな責任を自覚させてゆく営みが求められている。