テレビの報道について

 メディアの注目するできごとの現場に行く。今どきのことだから、新聞記者もいれば雑誌ライターもいるし、さまざまなスチールカメラマンもいればテレビカメラかついだテレビクルーやレポーターたちなどもひしめいている。ただ、所属は異なれど、いずれ身体を使う現場である以上、二十代からせいぜい三十代半ばぐらいまでの若い衆が中心になる。それらメディアの関係者、つまり「報道」がらみの人間たちの数は、どうかするとそこで取材の対象になっているできごとの当事者たちよりもずっと多かったりする。 それらの中でもテレビ関係者の人数というのがおそらく最も多い。だから目立つということもあるのだろうが、にしても、それらテレビの「報道」に携わる若い世代の顔つきや身のこなしは、同世代の新聞記者や雑誌ライターたちなどとは微妙に違ってきている印象が僕にはある。

 敢えて言えば、それは新聞記者を雛型にしてきた報道関係者の“らしさ”を外側だけ懸命になぞってみせているような感じなのだ。当然、その分意識のありようや身構え方も過剰になって、今どきそんなのいるかよ、とツッコみたくなるような絵に描いたようなブン屋的身振りまでが平然と横行したりする。今言われているTBSが取材テープをオウムに閲覧させていた問題というのも、そういう今どきのテレビ「報道」関係の若い衆の不自由とどこかで関わっているように僕は感じている。 少し前、ニュースショウの“偏向報道”が問われて、国会でのいわゆる椿喚問にまでつながった問題などは、活字中心の世界観の中で仕事をしてこざるを得なかったオヤジ世代のテレビ報道マンたちのコンプレックスや屈託がからんでいる事件だった。しかし今回の事件は、そのような活字中心の世界観があらかじめ溶解した状況で、しかしモードとしての「報道」だけが世界観抜きに稼働している若い世代の問題が大きいと思う。

 テレビが量的にも質的にも活字の補助的なメディアであり、だからこそサブの位置にいられた頃ならばともかく、今のこの大衆社会の「気分」を形成してゆく主要なメディアとなり、なおかつその「気分」がこれまでの制度とうまく関われないまま“声なき多数”を形成している。だからこそ、新聞や雑誌など活字メディアの伝統的な枠組みとはまた別の倫理や約束ごとをテレビは持つ必要がある。

 そのためには、テレビの「報道」独自の論理と倫理をもっとつぶさに現場から言葉にすべきなのだ。その意味で、ニュースショーやドキュメンタリーなどはもちろん、時にはワイドショーさえも「報道」なのだと敢えて言うことも、テレビの現場が仕事として主体化するためには必要かも知れない、と僕は思っている。