メディアと結果責任

 坂本弁護士一家殺害事件はあってはならない不幸な事件だった。それは全くその通りだ。何も一部の弁護士たちの言うように「弁護士が殺害されるなんてとんでもない社会だ」てな特権意識に立ってのことではない。どんな商売に携わる者であれ通常の市民生活を営んでいる家庭に乱入して一家全員を殺害し、なおかつあのように残忍な葬り方をして知らん顔をする、そんなことが許されていいわけはない、という最も素朴な正義感においてだ。

 けれども、これもまた素朴な疑問なのだが、今、その坂本弁護士事件を何か錦の御旗にしてものを言うことが大手を振ってまかり通るようになっていないだろうか。

 たとえば、坂本弁護士の母親をまるで葵の印籠のように担ぎ上げようとする気配が、メディアの現場も含めて強く感じられる。被害者対策弁護団にしてみれば「運動」の戦術としてある程度仕方のないことだとは思う。思うが、しかしそのご本人が公共の面前で江川紹子を面罵するような事態は「運動」の戦術としてはもちろんのこと、世間的な感情としても決してほめられたものではない。オウムに対して共に闘ってきたという共同性の自覚があるのならなおのこと、そのような昂奮やスピンアウトをしっかりたしなめてそっとしておいてあげるという配慮を示すこともまた、そのまわりにいる者たちの責任のはずだしそれらの報道に関わるメディアの現場もまたそれだけの度量を持つべきだろう。

 同じように、坂本弁護士事件をダシにしてTBSを糾弾する傾向があるように思う。もちろん、TBSの一件は大問題だが、それにしても、今ここぞとばかりに尻馬に乗って糾弾する者たちのうちに、果たしてあの時点でオウムがそこまでの悪者であると本当に確信の持てていた者がどれだけいるのだろうか、という疑問もまた同時に起こってくる。

 みな静かに胸に手を当てて思い返してみればいい。「信教の自由」をタテに「宗教」が未だ不可侵の聖域として扱われていたあの時点で、どうも怪しいと思ってはいても、そして坂本弁護士とその仲間たちのようにそのことを積極的に主張する立場がすでにあったとしても、少なくとも公的な報道機関としてはその立場に積極的に加担できるだけの材料はまず持っていなかったはずだし、またそんなことをすれば当時はそれこそ「良心的」で「リベラル」な言論から袋叩きに合ったはずだ。何より、他でもない警察だってオウムがクロである確信は持てていなかったのではなかったか。エイズ薬害問題で明らかに感染の危険性を知りながら対応を遅らせた医者や官僚連中の場合などとは事情が違う。

 なのに、TBSにだけ、あるいはメディアの現場にだけ、神の如き先見性を今になって求める根拠は何だろう。一部にはTBSの対応が坂本弁護士事件を引き起こした、といった論調すら見られるけれども、それはあまりに冷静さを欠いた魔女狩りに等しい態度で、まさにメディアの自殺行為だ。まして、だからテレビというメディアそのものに問題があるというような短絡した見解は、それこそ硬直した活字至上の「正義」への逆行になりかねない。それは間違いなく時代錯誤だし、ここ数年うっかり暴走しかねない不安定さをはらみ始めているこの国の“善意のファシズム”を無責任にあおる行為に他ならない。不幸な事件だからこそ、その結果責任を果たして今の時点から誰に、どこまでさかのぼって追及できるのか、していいのか、という線引きを冷静に考えねばならない。

 もっとも、事態が明らかになってゆく過程でTBS側がことなかれ主義で隠し立てしようとした醜態は、こりゃもうエイズ薬害問題での厚生省やミドリ十字と同じ。この国のオヤジ原理に縛られた組織の構造的問題だ。とは言え、それらを斟酌し、どんな能書きをつけたとしても、こんな魔女狩り的熱狂によって民間放送をひとつ潰しにかからないことには守れないような「正義」などやはりロクなもんじゃない。今のこの国のテレビがロクなもんじゃなくなっている面があることには僕も全く異論はないし、そのことはこれまでもことあるごとに表明してきた。しかし、だからこそ敢えて言う。そのロクなもんじゃないテレビを許容する度量も論理も持てない、持とうともしない状態に雪崩を打って向かいつつある社会ってのはもっとヤバい。単なるわがままや野放図の言い訳に持ち出されることが多くて本来の輝きを失っているきらいのある「言論の自由」というお題目も、こういう時にこそ胸張って主張するべきことなのだと、僕みたいなバチ当たりでさえ強く思う。