「大蔵省に石を送ろう!」のスカ

 ムカついた。なんでこんなスカな話がわざわざ「ニュース」としてごたいそうに報道され続けるのだろうか。

 「大蔵省に石を送ろう! ユニークな抗議行動。北海道の有志が住専処理などで大蔵省に抗議を示すため郵便で抗議の石=意志を送りつけようというもの」

 詳細は知らない。知りたくもない。だが、単なるオヤジのダジャレ感覚がどこかでこういう勘違いを生んでいるらしいことくらいは容易に予測がつく。で、そういう勘違いを「市民感覚」だの「誰にでもできることから」だのといった能書きで全くノーマークにしてしまっている現状というのがある。やりきれない。

 住専処理の不手際を見るに見かねて大蔵省に文句のひとつも言ってやりたい、そこらのオヤジやオバサンの素朴な気持ちとしてそれはもちろんありだ。で、それをそのままぶつけても何も変わらないってことがわかっちまってるから、ちと目先の変わった誰にでもできる方法を考えよう、それもあっていい。だが、決定的に問題なのは、その結果選ばれるやり口が必ずと言っていいほど、本当にやりきれないほどダサいことだ。「石」と「意志」ね。ああ、そう。おっもしれえ~。

 このダサさはやっている行為そのものではなく、やっているご本人たちの意識の持ちように関わっている。つまり、「こういうセンスもこれからの運動には必要だ」てな感覚でやっているだろうことが簡単にバレてしまう無防備スッポンポンさがダサいのだ。

 また、それを「ユニーク」などというもの言いでひとくくりにしてしまうメディアの現場も大問題。こういうスカな勘違いを「ユニーク」として扱う不用意な姿勢を反省するだけの見識を現場が持たない限り、「メディアに取り上げてもらいやすい」という当て込みもからんでこういう勘違いは再生産されてゆく。

 そういう勘違いも含み込んでこそ運動なのだという意見もあり得る。しかし同時に、そういう勘違いを垂れ流すことでその運動の目的までスカなものにしかならず、本来手をつなげるはずの人たちとつながってゆけないということだってある。目的が大事なのだから、というかつての「正論」は通用しない。大事な目的だからこそ方法に繊細な配慮が必要なのだ。今のわれわれの社会はそういう勘違いしたはしゃぎ振りに対する鋭敏さを広く共有してしまっている。勘違いは「お笑い」の対象にしかならないのだ。

 何より、そんな石をいくら送っても大蔵省は屁でもない。「こういう意味のないことやって自己満足する連中って必ずいるんだよな」といった衆愚観を増幅してナメられるだけだ。第一、そんな意味のない石を配達させられる郵便屋さんが気の毒じゃないか。