吉川弘文館のドジ

 吉川弘文館という出版社がある。歴史学系の学術出版を中心とした版元としてはまず老舗と言っていいだろう。地方史や郷土史関係にも強いから、読者の中にも書棚に一冊や二冊、この出版社の本をお持ちの方がいらっしゃるかも知れない。

 ここから最近出た『現代日本民俗学入門』という本がある。文字通り入門書だ。だがこの本、引用のルールがまるでなってない不作法さで物議をかもしている。

 要するに、他人の書いたものを引用関係を示さずそのまま文中に使って平然としているというお粗末。のみならず、どうやらその他にも探せばまだまだ同様の問題がボロボロ出てきそうな気配もあり、その意味では実にどうも珍しい書物のようだ。

 編者は佐野賢治、谷口貢、中込睦子、古家信平という四氏。いずれも大学の教師だったり民俗学会の理事だったりで世代的にも四十代そこそこ。まあ、ここらへんは狭い学界事情で恐縮だけれども、宮田登や福田アジオといったこれまでの民俗学の「権威」たちの後継世代の研究者たちにあたる。その意味では、この国の民俗学の未来に対して一応責任ある立場にある者たちと言っていい。

 しかし、ルール違反に対する謝罪と訂正を求めた被害者に対して、彼らは誠意ある対応を何もしなかったばかりか、版元である吉川弘文館と一緒になって「著作権法に照らして問題はない」「出版社は印刷所にすぎないので法的責任はない」てなことを弁護士を介して返答してきた由。(以上、ここらへんの事情は被害者である戸塚ひろみさんが自らことの経緯を明らかにして学会を中心に配布した小冊子にもとづいている)

 はあ、こいつら何を言ってるかてめえでわかってんだろうか。被害者が女性で、それも大学などの研究機関に属していない人だったからナメてかかったということもあるのかも知れないが、吉川弘文館って出版社は実は何の主体性もない単なる印刷所で、あんなチョンボもこんな不始末もつまりは筆者や編者が勝手にやったことだから知ったこっちゃない、ってわけか。で、編者も筆者も、学者の世間の「常識」の問題なのにそういう版元の尻馬に乗って杓子定規な法律の問題にすり換えて逃げようってわけか。

 恥ずかしくないか、おめえら。

 電話でも何でもいい。すまん、こりゃドジった、何とか悪いようにはしないからひとまず辛抱してくれ、とまず詫びを一発入れて、それから本腰入れて後始末にかかる、というのが何であれこういうトラブった場合の基本だろ? でもって、責任を認めて謝罪した上で、編者も筆者も被害者を代弁して版元に、たとえば増刷分からの訂正とか何か対策を求めるのがスジのはず。なのに、どういう負い目があるのか知らないが、版元の居丈高に相乗りするばかり。さらに時間がたつにつれて、入門書だから問題はない、とかごまかして逃げられないかといろいろセコい画策をして回った形跡までがボロボロ発覚してきていて、また、そんな編者や筆者の右往左往を横目にしながらほったらかしたまま、わたしどもは一切関係ありませんので本は売り続けます、とふんぞり返る吉川弘文館厚顔無恥はそっくりそのまま昨今の厚生省やミドリ十字やTBSと同じ。さすが『本郷』なんて権威主義丸出し、およそ臆面もないタイトルのPR誌を出している出版社だけのことはある。ったく、編者が編者なら版元も版元だぜ。あきれけえってものも言えねえ。

 人の書いたものをきちんと読み、その上でまた新たな何かを書いてゆく、という情報生産と流通の相互性の上に「学問」は成り立っている。改めて言うまでもない。その間には最低限の約束ごとがあるわけで、それが共有できなくなっていることが問題の根本だ。で、それは民俗学そのものが学問としての耐用年数が過ぎていることの証明だ、と僕や僕の仲間は言い続けてきている。こんな手合いが平然と理事を務め、偉そうに入門書を作る学会になんざもう何の未練もない。さあ皆の衆、とくとご覧あれ。厚生省もミドリ十字もTBSも学会もみんな同じだ。自浄作用を失っちまった「権威」ってのはあっちこっちで実にこういうくたばり方をしてゆくんですぜ。

追記――文中言及した戸塚ひろみさんの手による小冊子『消された「キリン」――ある引用・言及の「ルール違反」について』は、ご希望があれば小生の手もとにある分を複写しておわけしますので、返信用の封筒に120円切手を貼ったものを編集部気付、大月までお送り下さい。