『少女フレンド』休刊

 今年はビートルズが来日して三十年目ということで、当時の関係者の証言などをもとに彼らが日本に滞在した五日間の大騒ぎを改めて検証する、というテレビ番組を作っております。27日の夜8時からNHK教育テレビで放映されるはずなので、もしよかったら見てやって下さい。

 取材をしながら、我を忘れてキャーッと騒ぐ当時のティーンエイジャーたちのありように改めて三十年という時間を感じている。だって、あんな失禁するようなとんでもない騒ぎ方を、たとえば今どきのSMAPのファンはしないはずだもの。たかだか音楽一発でそこまで騒げてしまう自分があったことを「おんな・こども」である本人たちも「大人」の側もうっかり発見してしまった、その社会的規模での戸惑いというのはやはりすでに「歴史」であります。 そんなことを考えていたところだったので、『少女フレンド』がこの秋に休刊、というニュースは感慨深かった。

 少女マンガと言えばかつては、お眼々パッチリのお人形さんみたいな顔した主人公が継母のいじめにさらされながら頑張る、てな代物だった。中野翠さんのご幼少のみぎりなどはそのテのものが全盛だったはずですが、それが七〇年代に劇的に変貌してゆき、単なる女の子向けのマンガというだけでなく同時代の表現としてある水準を獲得していった。それは音楽やマンガやファッションや、「豊かさ」を味方につけたサブカルチュアによって解放された「おんな・こども」の領分がひとつ「少女マンガ」という形式を獲得したことであり、同時にそれら「おんな・こども」が社会の中での位置を自覚し、身の置き所を見つけてゆく重要な糸口にもなっていった。

 だが、その後「少女マンガ」「少年マンガ」という区分は八〇年代前半あたりに事実上なくなってしまった。『少女フレンド』もまた、今どきの「おんな・こども」にとって切実な表現を提示する場ではなくなっていったのだろう。

 ひと月ほど前、マンガ家の岡崎京子(ったって、『サンデー毎日』の読者の多くはご存じない名前でしょうが)が交通事故に会って瀕死の重傷を負った。だが、ごく一部のメディアで事件報道されただけで、彼女がもうマンガを描けないかも知れないということがこの国の表現にとってどれだけどえらいことなのかについては新聞も雑誌も、まだほとんど何も語っていない。もちろん語られないだけの理由もあるんだろうけど、はあ、いくら優れた表現と市場とを獲得してきてても、そういう「大人」の世間にとっちゃやっぱりその程度にどうでもいいものでしかなかったんだな、「おんな・こども」のマンガって、と改めて思い知らされた。いや、今回はなんかグチっぽくてすいません。