安楽死の是非とは?

 京都府下の病院で起こった安楽死問題で、末期ガンの患者に筋弛緩剤を投与したと言われる院長を支持する人々から「院長を逮捕しないで」という嘆願書が出たそうである。 そうだろうなあ、と思う。

 かのKKCの会長に「会長、頑張れ」という会員の声が集まっているのとはわけが違う。あの院長は、地元の脈絡では間違いなく「評判の良い先生」だったはずなのだ。

 誰であれあまりに辛くて自分ひとりでは判断できない問題がある。人の生き死になどその典型。われわれ日本人は一般的にマーシー・キリング(慈悲として与えられる死)の習慣を持ってこなかった代わりそんな生き死にの問題を取り扱う専門職を育んできた。それも今の医学のように単なる技術や知識の集積で考えるだけでなく、その意味づけや説明といったあいまいな領域も含めたもっと大きな「責任」を前提とした、その意味では特別な存在の専門家を。

 たとえば、昔の産婆さんなんてのはそういう仕事だった。生まれることを手助けするだけでなく、さまざまな事情で生まれては困るであろう子供の命を責任を持って始末してやることも、その仕事の中に確かに含まれていた。

 それは法律の字義通り杓子定規に解釈すれば間違いなく「殺人」だったろう。親が確かに言葉にして依頼した上のことでもなかったケースも多かっただろう。けれども、はっきりと明示されたものではなかったにせよ、その結果に対して「ああ、助かった」と親たちがひそかに胸なでおろす現実はいくらでもあったはずだ。言葉では「死産でしたよ」とでも言ってもらえればいい。それ以上のことは詮索したところで幸せにならない、と判断すればその説明を受け入れる。そしてそこから先は、言葉本来の意味での信仰の領域に委ねて落ち着かせてゆく。そういう知恵が「そういうものだ」という前向きのあきらめと共に共有されていた社会の内側では、こういう「暗黙の了解」が成り立っていた。もちろんそれだけがひとり歩きすることは今どき大問題だし、何よりもはやそんな知恵が勝手に共有されるような社会でもなくなっている。昨今の「情報公開」の流れなどその意味では必然だろう。しかし、だからと言っていきなりそれぞれの「自分」に全てを任せられても途方に暮れるしかない、という現実もある。

 人間誰しも生まれることを自分で選んでこの世に生まれてきたわけじゃない。だったら、死ぬ時だって自分で死に方を選び切れない事態が訪れたとしてもそれはある程度仕方ないことだろう。自分のことは自分で、という個人主義が過剰に持てはやされてきた結果、おのれの死さえも自分ひとりで決めなければならない難儀が僕たちの前に立ちはだかり始めているらしい。