「いじめ」の国際化?

 先日、「いじめ」についての国際シンポジウムが開かれたという。背景はよく知らないが、サッカーくじや大学再編の問題を見てもわかる通り、今どきの霞ヶ関の論理の中で自己主張に血道をあげる文部省あたりが後押ししてでっちあげた代物でなけりゃ幸いだ。

 間違えてはいけない。「いじめ」はまず徹底的にドメスティック、かつナショナルな問題である。今のこの「日本」という国と社会と文化の脈絡において日本語を母語とする共同体の内側でまず語り、考えられるべきテーマである。いかにしんどくてもそこに頑張って言葉にしてゆこうとする性根も目算も共有されていないままの議論は、いかにそれが善意でなされていたとしても、結果としては構造の中で「いじめ」を助長する側に回る。

 同じ日本の中で起こっている「いじめ」の事例ですら、その背景は千差万別。だからこそひとからげに「いじめ」などというもの言いを持ち出すのはひとまず棚上げにして議論した方がいいし、その程度の誠実さはすでに心ある論者たちの間には共有されている。なのに「いじめ」報道は昨今、メディアがお手軽に正義を背負う絶好の糸口になっている。

どれだけ切実な問題でも、それぞれの具体的な文脈や背景とつぶさに取っ組み合う構えのないままでは、「いのち」や「ネットワーク」といった大文字の言葉にいきなり足もとをすくわれる。その無惨もまた、われわれはもう充分に思い知っている国民のはずだ。