96年上半期のニュースから

なんだかんだ言って今年ももうはや八月。というわけで、今年前半のニュースランキングのトップをずっと眺めてゆくと、はあ、そういうことか、と気がつくことがある。世間の意識がどういう方向にアンテナを向けて、どういう情報にピッと反応しやすくなってるものか、何となくある輪郭というのが見えてきたりする。 ごくわかりやすくくくっちまうと、野茂とサッカーとO-157であります。野茂は勝とうが負けようがやっぱりランキングの上位にくるし、サッカーはワールドカップやオリンピックという「世界」のからみで必ず注目を集める。ウインブルドンのテニスも同様ですな。でもって、O-157はやっぱり早い時期からどこか気になるニュースとして意識されている。六月の半ばにはもうランキングの一位になっているというのは、こりゃ市役所や厚生省といったお役所方面はもちろん、メディアの現場よりも世間の方がある意味では敏感に反応していると言えなくもない。薬害エイズの問題や狂牛病の騒動なども同じような流れだ。

これはどういうことかというと、つまりスポーツを媒介にして身近に感じられるように思う「世界」の広がりへの関心と、その手前にある最も具体的な「日常」の不安というふたつの方向性が奇しくも表現されてるんじゃないだろうか、と思うわけであります。なんかいかにも評論家っぽいもの言いでみっともないんですけど、でも、やっぱりそういうことなんだろう。

「世界」と「日常」。思えば全く両極端の、この意識の遠近法の振幅は、実はそれだけ今のわれわれが知らず知らずのうちにとんでもない広がりの中で「自分」というものを位置づけねばならない状況に巻き込まれちまってることに他ならない。高度情報化社会とかネットワーク社会とか、いろんな言い方されるけど、要するにそういう伸びきったゴム紐のように意識が緊張を強いられ続ける状態。でも、人間いきなり「世界」って言われてもリアルじゃないからスポーツという窓口から理解するしかないし、「日常」ったってそのままでは漠然としてるから災害や病気といった尋常ならざる事態を通して自覚するしかない。

情報化社会では人々は他人の現実にばかり興味を持つようになる、とか、それこそ評論家のセンセイたちなんかによく批判されるけど、実はそんな他人の現実からどう自分の現実をはっきりさせるかにみんな関心があるだけのこと。くだらないゴシップも、興味本位のスキャンダルも、時にやり過ぎる事件報道も、全てこやしにして「世界」と「日常」の振幅の中の「自分」を確認するよすがにしたいというこの切実さ。やっぱり日本人って、どこかクソ真面目でけなげだと思う。