「正論」的「保守」言説の限界

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 「保守」と言われ、「右」と言われる。最近では僕などでさえ、こういう場で連載を持っているというだけでそのようにレッテルを貼られることが少なくない。まして、いわゆる「東京裁判史観」に疑問を呈し、その枠組みを相対化するようなことを言ったならば、それだけで「そういう立場の人」として見られてしまう情けない状況は未だ根強くある。

 けれども、「歴史」の見直しはようやくこれまでよりも風通しの良い形であちこちで言われるようになってきた。十年前、いや、五、六年前までならばまだここまでおおっぴらに主張できなかったところがあったし、仮りに主張したところで「ああ、結局はそういう“右”の連中の言うことだろ」といった通りいっぺんな理解の仕方で片づけられるか、そこまで明確でなくても「なんか知らないけど、昔の戦争は間違ってなかったって言いたがってる時代遅れなオッサンたちのことでしょ」といった同情なき感想が漠然と共有されてゆくのがせいぜいだった。主張そのものは以前から言われていることだとしても、その議論をめぐって立ち上がる世間の理解が少し前までと違って、「言われてみれば確かに、われわれが当たり前だと思ってきた戦後の歴史というのは少しばかり偏ったものだったかも知れないなあ」といった程度には開かれたものになってきている。右か左か、保守か革新か、といった冷戦下のイデオロギーの対立を前提にした図式的な世界観が崩壊せざるを得なくなった状況がじわじわと世間の気分をも侵食してゆき、同じ主張に対しても今は真摯に耳傾けざるを得ないような内実が作られ始めている。

 だが、だからこそ敢えて言わせていただく。逆説的に聞こえるだろうが、このような状況は「東京裁判史観」を信奉してきた人々よりも、むしろこれまでイデオロギー対立の図式の内側という悪条件下でそのような「東京裁判史観」に対する疑問を主張し続けてきた人々にこそ、もっと正面から認識してもらいたいことだと僕は思う。

 たとえば、以前から繰り返される閣僚の「暴言」騒動を考えてみよう。言うまでもなく、冷静にその発言内容を確かめてゆくとそんなに無茶なことを言っているわけでもない場合がほとんどだ。少なくとも、正義ヅラしたマスメディアがいっせいに糾弾してみせるほど非常識な見解を披瀝しているわけではないことが多い。ただし、個人の歴史観としては十分に常識の範囲に収まり得るようなものだとしても、閣僚なら閣僚という公的な立場において、しかも今の政治状況でいきなりそのような発言をすることについての考慮がなさ過ぎるのでは、という疑問は僕にはある。一歩譲ってそのような問いかけを喚起することの政治的意図を計算した上での発言だとしても、これまでそのような問いかけが穏当な脈絡で理解されるような状況が政治的に作られてこなかった経緯があり、それがいかに不幸で不自由ななことだったとは言えそれもまたすでにひとつの歴史的経緯となってきた上で現在の状況がある以上、いきなりそのような発言をすることはやはり唐突な印象ばかりが前面に出てしまう。ご本人としては「わしは間違ったことは言っとらん」という気分の昂揚もあるだろうし、それに対して拍手喝采する向きもあるにしても、それはやはり「ああ、結局はそういう“右”の連中の言うことだろ」といった図式的な理解を発動させて事態を収拾させてしまう既存のメカニズムに対抗する手段にはつながり得ないという意味で、申し訳ないが戦術的には不用意だと思う。

 このような戦術的不用意さは、「いかに正しいことを言っても結局は左翼偏向にこり固まったマスコミが歪めてしまうのだ」という世界観をどんどん強めてゆくことにもなる。正直言って、『正論』誌上で繰り返されるメディア批判の論調のある部分などにも、そのような世界観が悪い意味で固着している印象を持つことが少なくない。心情的には理解できるとしても、それはやはりそのようなメディアの内側に向かって同情ある読者を獲得して既存のメカニズムを変えてゆく営みにはつながりにくいものだと僕は思う。冷戦下のイデオロギーが崩壊したことで世間の側がこれまでよりも開かれた批判力を持つようになってきた、その限りではそのような「正論」がより穏当に受け入れられる状況があり得るようになってきたからこそ、なおのことこのような「左翼偏向マスコミ批判」の論調には戦術的繊細さが責任感と共に求められているはずだ。それが「正論」であると信じるならばなおのこと、これまでのように言いっ放しのままではいられなくなっている、その程度に世間は賢くなっていると僕は思う。

*1:『正論』「批評スクランブル」連載原稿。