オウム特別指名手配犯の「場所」


 いやはや、びっくりした。特別手配されていたオウムの北村、八木沢両容疑者が一年半潜伏していたというマンションは、実は小生の実家のすぐ近所であります。なんだあんなところにいやがったのか。 と同時に、どんよりと実にやりきれない気持ちになった。今どき世間の眼をはばかって逃亡生活を送るのにああいう土地柄のああいう場所に潜んでしまう、その感覚がわかるだけに情けなくも辛いのだ。 

 窮屈そうなワンルームマンション。所沢市内の中心部からひと駅外れたところで、本当にここ二、三年でそれまでの街並みがバタバタッとマンションなどに建ち替わるようになったあたりだ。これが街なかの商店街が崩れながらもまだあるような土地ならば彼らも隠れにくかったと思う。オウムにハマっていった連中の意識というのは、やれ偏差値教育の影響だ、ビジュアル文化の世代だ、などともう山ほど能書きが出されているけれども、それら各論の場からひとつ引いたところで眺めれば、その意識の背後には芝居の書き割りみたいにこういう都市近郊の急激に人口が増えちまったあたりの風景がしみついているのがわかる。これはもう確信に近い。自分が追いつめられた時に敢えてこういう風景のあたりについつい集まってしまう、その皮膚感覚の気配は拭いがたいものだ。

 キャベツ畑の中を唐突に切り開かれた片側二車線の幹線道路。でも、暮らしの重心はその裏道の曲がりくねった狭い旧道と朝夕以外はめっきり本数の減るダイヤの郊外電車の急行の通過駅あたり。駅前には自転車と原付がたまり、酒屋とパン屋ぐらいしかなかったところにコンビニとレンタルビデオ屋とラーメン屋とペットショップが並び始め、軒先をかすめながらバスが通ってゆき、そのうち殺風景な幹線道路のまわりにラブホテルとカラオケボックスファミリーレストランとガソリンスタンドと中古車センターと廃品のリサイクル屋がばらまかれてゆく。古い地主の屋敷だけはこんもりと屋敷森があって、その脇には雑木林を切り開いて造成した建て売り住宅の群れがびっしりと続く。

 日本の「豊かさ」とは実にこういう風景をいたる所に現出していった。アメリカの民俗学などではこういう路傍の風景とそこに住む人々の意識の関係を論じる仕事があったりするけれども、文学であれ何であれ、こういう「豊かさ」の達成された後の暮らしの風景に宿る心象に立脚した表現というのはまだあきれるほど乏しい。唯一例外があるとしたらアニメだろうと僕は思っているのだけれども、いずれにせよ、そのようなポスト「豊かさ」の暮らしのリアリティにこそオウムは最もよくなじんだということらしい。改めて、辛いよねえ。