「歴史教科書問題」の、ある本質

 教科書なんてどんな妙なものでも教え方ひとつ、「これは間違ってますよ」という反面教師だって教科書の役割だとさえ思う。それに、今に限らずこれまでだって何も教科書だけで人々の「歴史」意識が形成されてきたわけでもない。時代劇や小説や、その他実にさまざまな同時代のメディアの複合体の中で宿ってきた「歴史」の経緯をこれまでの歴史の学問は全体として見ようとしてこなかった。だから、教科書だけを最も信頼されるべき歴史のテキストのように取り扱う自由主義史観研究会の態度は、僕にはまず違和感がある。

 とは言え、彼らの主張に対して、未だに右か左か、保守かリベラルか、といった大文字の対立図式でしか見れない世間も貧しい。なるほど賛同者にはいかにも“右”の面々がずらりで、個人的には共感できない立場の人も混じる。しかし、そのような違和感を超えてなお、「歴史」についての議論を風通し良くする努力が今、何より必要だと思っているからこそ、僕はこの歴史教科書をめぐる議論はできるだけ前向きに見守ってみたいのだ。

 右か左か、よりも問題にされるべきは、言葉に対する感覚の世代間格差だ。要するにおおむね団塊の世代から上だけの騒動、右でも左でもオヤジの議論にゃ変わりねえだろ、という気分が三十代以下にはあったりする。もちろんオヤジの側から見れば、社会的な問題に全く関心を示さずミーイズムと相対主義に陥っている若者、てなことになって、その点では左右のオヤジ同士共感し合えたりするのだろう。いずれにせよ、そのような枠組みがうまく自覚できないままオヤジと同じ舞台に巻き込まれている若い世代は、そのもっともらしく吐く言葉が一見右でも左でも内実は同じこと。たとえば、先日の「新しい歴史教科書を考える会」の記者会見で呼びかけ人たちにヒステリックに食い下がった朝日新聞岩波書店の若い記者と、やたらと「保守」や「民族主義」を標榜し「軍事」や「天皇制」を語る興奮に舞い上がる最近の若い論者は、僕の位置から見れば同じ無自覚な偏差値勝者。その対世間感覚の狂った独善的な“純粋まっすぐ君”の身振りは、共にひとつ間違えばオウムのような暴走を始めかねないものに思える。なのに、右か左かという図式にだけ未だ固着するオヤジたちの側からは、この世代をへだてる言葉の感覚のズレや、そこにすでに宿っている深刻なあぶなっかしさの部分はなぜかよく見えないらしいのだ。

 教科書だけが問題ではない。歴史とナショナリズムを媒介に、身についた言葉で社会のこと、日本のことを考える風通しの良い場を編み直すきっかけにしてゆければいいのだし、はっきり言えばそれさえできれば十分だと思う。どんなに情けない歴史を持っているとしても、われわれは日本語を母語とする民族でしかない。そんな「日本人」であることをまず前向きに引き受けようとする態度からこそ、健康な「歴史」への見通しも開けるはずだ。