むかしの「不良少年」


 手もとに、『不良少年の研究』(大鎧閣 大正一二年)という本がある。古書市場でそれほど珍しい本でもないと思うが、しかし中身はかなりいろいろな読みを引き受けてくれるものだ。
 著者は、鈴木賀一郎という人。「東京少年審判所審判官 法学士」という肩書が背表紙にまでついている。もとは裁判所の検事で少年係主任もやった人らしい。

「近頃不良少年、不良少年といふことが新聞にも頻りに書かれ、また人々も口癖のやうに言って居るやうでありますが、世間の人々にはまだ不良少年といふものの実情は、少しも分って居らふやうであります。(…)不良少年とは犯罪行為を為し又は犯罪行為を為さんとするの虞ある少年及不道徳行為を慣行し、又は不道徳行為を慣行せんとするの虞ある少年であると言ってよいかと思います。この定義様のものからいへば、不良少年の中には犯罪的少年と、不道徳的少年とを包含し、犯罪的少年の中には、犯罪少年と準犯罪少年とを包含し、不道徳少年の中には、不道徳少年及準不道徳少年とを包含することとなるのであります。」

 この大正初年というのは、「不良」という言葉が出現し始めた時期だ。それは大衆社会化の進展に伴い、都市の盛り場がそれまでと違ったありようの「大衆」を集め始めた時期でもある。そして、このしちめんどくさくも律儀な「定義」のやり方も、また時代である。

 当時の「不良」とは何か。「虚言慣行、暴言慣行、学校無断欠席慣行、学校又は職業を放擲して活動・芝居・寄席其他興行物を観覧するの慣行、猥褻行為の慣行、私通・淫売・遊廓遊の慣行及び虐待(犯罪の程度に達せざるもの)の慣行等が主なるもの」という。つまり、嘘をついたり、生意気なことを言ったり、学校をサボッたり、昼間から盛り場をウロウロして映画を見たり、異性とつきあったり、といったことをする若い衆というのは、これ全て不良の仲間。もちろん、猥褻行為のものさしとか盛り場の興行物の中身などはいかにも大正時代だけれども、しかしこのあたりの感覚というのは基本的に今も概ね変わりはない。そう、大正初年あたりからこっちは今のわれわれと地続きの昔なのだ。

 ただ、注意したいのは、この「不道徳」である事例の並び方だ。「虚言」「暴言」といった言葉の逸脱から始まって、「無断欠席」といった行為の逸脱へ移行してゆき、そして「猥褻行為」などの当時の社会的常識からは表立って位置づけられていなかった、それゆえに「女・子供」とは直接に関わることが公式には想定されていなかった領域へと連なってゆく。言葉とはそのような人間の内面が外に向かって現われるインジケーターである、という認識の上に立っているのだ。

 「教育」という制度が「学校」という装置を媒介に組み直されてゆくのが近代化の過程であることは改めて言うまでもない。だが、その「教育」の場で、言葉とは個々の人間の内面と対応するものである、という考え方が浸透してゆく。言葉だけが人格でありその向う側の内面などはひとまず考慮しなくていいものだったわれわれの近代以前の当たり前とはまた違う意味を、現実の人間関係の中で言葉は担い始める。その過程で、それまでもあったはずの「こころ」というもの言いが、その言葉の向う側の内面を指示するものとして横滑りに使い回されてゆく。近代以前のわれわれの先祖たちが、どのように「こころ」を考えていたのかということは、このような言葉と内面との一対一対応を強制されてゆく近代化の過程からはみるみる遠くかすんだ歴史となってゆく。

 ここから「心理」というあのもっともらしい翻訳語まではあと一歩だ。言葉が正しくない者は心も正しくない。言葉の乱れは心の乱れ。今でも子供の非行を発見するきっかけとして「言葉づかいが変わってくる」という言い方はされていて、警察のパンフレットなどでもよく見かける。そのたびに、ああ、こういう具合に文化は残存してゆくんだな、としみじみするのだけれども、そのような「こころ」を、内面を問題にしなければならなくなった時代というものが、このような考え方の背景にはすでに歴史として横たわっている。

 ここで言われている「言葉」とはどこか乾きものの標本に近く、言葉が生身の身体を介して社会化した習いであるところの「もの言い」(narrative)の位置づけというのは、このような言葉観からはまだ遠い。ダイナミズムがまだ介在していないのだ。だから、「暴言」や「虚言」といった表現には、そのような語彙の分類だけでなく、具体的な言葉使いも含めた「もの言い」のニュアンスも未分化の状態で含まれていたと考えていい。

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 ともあれ、大正八年の東京区裁判所検事局の統計によれば、東京の犯罪少年の数は二三〇〇人。そのうち学生が一七〇人で、内訳は中学生が一一六人、小学生五四人となっている。当時の東京市の範囲は今で言えばほぼ山手線の内側くらい。人口も少なかったから地方都市のようなこじんまりした数字になっている。逆に言えば、これくらいの人数でも社会問題化するくらいに社会のありようが違っていたということを読み取るべきなのだろう。

 ただし、これは検事局扱いの事件は当時の刑事責任年齢である一四歳以上の少年たちが関わっているものがほとんどで、それ以下の年齢の者はそれぞれの警察署で処理するのが普通だった関係から中学生の比率が高いのであって、これだけで小学生より中学生の犯罪が多いと断定はできない、という断わり書きがついている。小学生程度の年齢の子供たちの「不良化」が、当時水面下でかなり問題になっていたことがうかがわれる。「不良」という枠組みが発見され、そのものさしで見ればそのような低年齢の子供たちの多くがその「不良」に近い日常を平然と送っていたりしたことが見えてきて、「補導」と「善導」する対象になってくる。「問題」とは、おそらく常にこのように社会的に編成されてゆく。

 さて、その具体的な「不良」行為の内容は、万引き、恐喝、飲食、遊興で、万引きの品物は本や文房具、唐物となっている。唐物というのは、今で言えば、まあ、ちょっとしたインテリア小物や輸入雑貨と考えてもらえばいいだろう。少なくとも、食べ物や着物といった、何か直接的な実用性のある“もの”ではないということだ。

 これがもう少し階級的に下とされた「雇員・給仕・店員・小僧・職工」といった仕事に就いている若い衆になると、店の商品や売掛代金の使い込みなどになり、「人夫・屑買・不就学児童」となると、まずほとんどがかっぱらい。これには具体的な説明がある。

「夫婦二人切りの労働者に、子供が生まれたといたします。一歳二歳の頃には母親が背にして地行の綱引にも出掛けるのであるが、一人歩きが出来るやうになりますれば、子供一人を家に残し、お結びの二ツも当てがって綱引に出掛けて仕舞ひます。周囲は貧民の巷であります。遊ぶ友達は買食其他悪癖の教師であります。店先から駄菓子の一ツも掻拂ひ度くなるのは当り前ではありませんか。また通学時代になりましても、児童は腹を減らして学校より帰って来る、父母は居らず、家の中は空であり食べたくも食べる物がない。また通学時代になりましても、児童は腹を減らして学校より帰って来る、父母は居らず、家の中は空であり食べたくも食べる物がない。友達は饅頭やお菓子を目の前で食べて居る。此の中に居て其児童だけに正直を守れといふことを、無慈悲にも厳命することが出来ませうか。児童を責むる前に、先づ父母を責めねばなりませぬ。父母を責める前に、先ず社会を責めねばなりませぬ。」

 これはもう絵に描いたような「貧乏」である。だが、さらにまだ下がある。「全くの無宿者」で実態はほとんど乞食。このクラスの不良少年を彼ら仲間同士では「グレ」と呼んでいたという。「グレる」と今も使う、あれだ。もとは「はぐれる」「まぐれる」といったもの言いから出たものらしい。公園、駅、埋め立て地などにたむろして暮らしていたという。繰り返すが、これはまだティーンエイジャーの子供たちである。

 この「グレ」には組織があった。「頭」がいて、盛り場の食堂などから出る残飯をもらって歩く采配を振るっていた。新参者は「ジケ」と言った。これは「寺家」ではないか、とこの著者は推測している。もとは寺の家人の意味で、托鉢の坊さんがものを乞うさまから転用したのでは、というのだが、この種の語源詮義の常、あてにはならない。

 その他、紙屑拾いもやり、紙屑は千住の原に持って行って焼いて灰の仲買人に売った。煙草の吸い殻はほぐして散らし煙草にし、木賃宿で売る。煙草の箱の錫箔(銀紙)はまた別の仲買人に渡す。さらに、活動写真の行灯担ぎや広告配りもやっていた。少し前のサンドイッチマン、今ならテレクラやサラ金ティッシュ配りか。ただ、この広告配りはこのグレたちですら単調だと嫌がる仕事だったらしい。なるほど、その伝でゆくと今どきのキャンギャルなんてのは、乞食少年たちすら嫌がる伝統的な近代の下層労働であるのだな。

「グレの最大の欲望と申しますのは、現代にありふれた富豪とか金持とか成金とかいふ者等の欲望にやすに、巨万の財宝を蓄へ貪欲飽く事を知らずといふやうな欲望とは違ひます。グレの最大の欲望は、自由に食べて、自由に寝て、気随に遊んで、気儘に楽むといふだけのものであります。体に楽をさせて暮したいといふ、つまり怠惰心から起った欲望であります。」

 なんだ、今のわれわれじゃないか、と思うのは自然だ。たとえば、奥田民生の歌う歌は当時のこういう「グレ」たちの心にも、きっと響いてゆく内実を持っているだろう。そういう意味で、大正初年の「不良」たちは今のわれわれの地続きの先祖でもあるのだ。