薬害エイズ訴訟の意義

エイズ薬害訴訟の原告団が国の加害責任を問うて厚生省前で座り込みを敢行した。
ウイルスに汚染された非加熱の輸入血液製剤のせいで、何も知らずにそれを投与された血友病の患者さんたちが心ならずもエイズに感染してしまったという、ひとまず誰も弁解の余地のないひでえ話。そんなヤバい血液製剤をそのまま国内に流通させることを容認し、なおかつその後、例によって頬かぶりをしてやりすごしてきた厚生省の責任が今、厳しく問われている。
しかも、その血液製剤からエイズに感染していることを当人に知らせないままでいるケースもあって、感染していることに気づかずにいる患者さんたちから二次汚染まで広がり始めているというから、こりゃもう一刻も猶予あいならん事態。とにかくガンガンやってくれ、個人的には今のところ何の関わりもないけれども、責任ある観客としてきっちり経緯は見守るぜ、とひとまず言わせていただく。
ただ、その責任ある観客のひとりとして、老婆心ながらちょっとひとこと。
訴訟を準備している原告団の周辺で活動している市民組織のメンバーなどはもとより、当の原告団の中にも、厚生省の責任者にきちんとあやまって欲しい、という要望が少なくないと聞く。これがちと気にかかる。
もちろん、その気持ちはよくわかる。自分がなんでこんな不条理な目にあうのか、その原因を作った責任者にその責任を自覚してはっきりあやまってもらいたい、そう思うのは全く自然だし正当だ。しかし、と同時に、その「あやまらせる」ことが「運動」の第一義の目的となってゆくのは本末転倒。きっちり今後の治療体制などを整えさせ、まだ感染を知らない人たちには責任を持って告知をして二次感染を防ぐ手立てを講じさせ、さらに感染してしまった人たちに対しては十分な補償をし、といった具体的な対策の部分が「運動」にとってはやはり何より優先されるべき要求のはず。そのような具体的な目標とそのために発動される広義の“政治”の文脈の中でこそ、「気持ち」も「あやまらせる」ことも「運動」の武器になる。そこから遊離したところで「気持ち」だけがひとり歩きし始めることは、「運動」としては自閉の一歩。妙な袋小路に入り込みかねない。 「気持ち」は大切だ。しかし、「気持ち」はそのままでは力になり得ない。だからこそ、手をつないでゆくことが必要なのだ。そのために世間を巻き込んでゆく営みを、かつては「運動」と言った。そんな「運動」はどこか不自由な雰囲気をまつわらせるようになって久しいけれども、しかし、そういう不自由を乗り越えようとする試みとしても、この薬害訴訟の経緯は見守らねばならないのだと思う。