再び、テレビの報道について

 どうも事態があまり健康でない方向に動いているようなので、しつこいようだけれどもTBSの問題をもう一回。 

 報道機関は「まともな」報道をしなければならない、と言われる。もちろんそう思う。思うが、しかしじゃあテレビにとっての「まともな」報道ってどんなもんなの? という問いに納得いくように答えようとする動きは見られない。

 視聴率至上主義が諸悪の根源、といった意見もある。もちろんこれももっとも至極だ。けれども、ならば視聴率をまるで気にしないで作られるべき「まともな」番組ってのを、さて誰が喜んで見ようとするのか、そんなことが今のこの国の商業放送の現場でどれだけ実現可能なのか、具体的に考えてゆこうとする議論には未だお眼にかかっていない。

 だが、それらがない限り、どんなに大文字の正論を振りかざして憤慨してみせても、経営陣はいざ知らず、テレビの最前線で日々働いている人間にとっては「ったく、エラいさんってのは勝手なことばかりぬかすもんだぜ」のはずだ。で、事態を最も切実に受けとめねばならないはずの現場の当事者たちにそういう感情をわだかまらせてしまう構造こそ、活字文化の世界観によりかかったこれまでの「報道」が作り出してきたものだ。 

 もちろん、そういう大文字の「報道」の場は保証されるべきだし、同じく大所高所からの正論も時には必要だ。しかし、それだけが「まともな」報道であるという世界観は、そうは言うけどそんな能書きだけじゃこの現実は何も変わらんもんね、という感情を世間の一般常識にしてしまう程度に無力だったことがすでにバレてしまっている。 

 そういう「まともな」報道が現実から遠いものになってゆく過程を、それこそ国民的規模で確認してゆく体験をわれわれはしてきている。高度情報化社会とはそういうことだ。それはメディアに対して国民が賢くなる過程であり、その意味であるべき民主主義の前提を準備してゆく過程でもあったとさえ思う。そして、テレビというのはその過程で最も大きな力を発揮したメディアのひとつだった。テレビが本質的に俗悪であることは間違いない。しかし、その俗悪さの中に宿る「報道」の質こそがテレビの「報道」の最大の武器でもあるはずだ。活字のコリをほぐし、健康に相対化してゆき得る映像の雄弁。なのに、この国のテレビの果たしてきたそんな役割について、当のテレビはあきれるほど無自覚なままだったらしい。 

 どうした労働組合。倫理的問題として郵政省が処分を検討中とか言われてるけど、てやんでえ、なんで郵政省に倫理を検討してもらわなきゃならないんでえ、てめえらの仕事の倫理なんざてめえらで決めるぜ、と、ここはタンカのひとつも切って欲しいのだが。