美当一調、「軍談語り」の栄光


 勤め先の博物館で、浪曲についての展示をやることになった。浪曲、つまりは浪花節だ。今やほとんど忘れられてしまったけれども、明治の後半から大正、昭和にかけて、戦後も高度経済成長期あたりまでは圧倒的な人気を誇った国民的芸能。今の五十代から上の日本人ならば、どこかであの独特の節まわしや、有名なネタのさわりぐらいは記憶しているはずだ。
展示の予定は二年後、一九九八年の秋だからまだ時間はあるけれども、具体的な“もの”を並べて何かを表現するという通常の博物館展示の枠組みだけでは、こういう芸能がらみ、身体技術と関わる領域をテーマとした展示はなかなか難しい。声や節、タンカといった形になりにくい要素をどのように展示として示し、具体的な“もの”と複合させてゆけるか。今の時点で考えても、工夫しなければならないことや試みなければならないことは山ほど出てくる。
まず何より、国宝や重要文化財といったすでに“お墨付き”をもらってどこかにきちんと保管されているような“もの”たちというのが、こと浪曲については全くと言っていいほどない。つまり、どこにどのような“もの”があり、どのような管理がされているのか、といった情報からして整備されていないわけだ。だから、まずそういう“もの”の発掘から始めなければならない。現役の浪曲師たちはもとより、すでに引退して隠居している人たちやかつての花形の遺族や関係者の人たち、あるいはまた、脇で三味線を弾いていた曲師や全国的なネットワークを作り上げていった興行師といった人たちまで含めて、資料の掘り起こしをやってゆかないことには、まず並べて展示するべき“もの”そのものが確保できないのだ。
でも、だからこそありがたい面もある。予期しないところから予期しないような資料がポロッと出てきたり、こんなものがなんで出てくるの、というような“もの”が平然と残っていたり、といった体験は楽しいものだ。まあ、博物館の展示については僕などは門外漢だから勝手に喜んでいるのだが、展示についてのプロである学芸員などに尋ねても、通常の展示がらみの作業ではこういう事態にはあまり遭遇しないらしい。その分、発見された資料の保存状態や管理のされ方などは危ういものが多く、こっちは門外漢の強みであまりのことに最後は笑うしかなかったりもするのだが、貴重な写真がネズミに食われていたり、珍しい新聞や雑誌がボロボロに朽ちかかっていたり、プロの学芸員たちからすればほとんど論外、眉をひそめるどころか頭を抱えてしまうことも珍しくない。歴史学者が旧家の蔵をあけてもらったりして文書史料の調査をやる時の体験というのも、実はこういうものかも知れないと思ったりもする。


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そんなことを手がけているうちに、美当一調の速記本に接することができた。前々から気にかかっていた人間のひとりだったので、個人的にはうれしかった。
美当一調。本名尾藤新也。明治中期から後期にかけて、九州を中心に大人気を博した軍談語りの芸人。大阪で刊行されたこの『日清戦争談』は何冊にも分かれているが、第一編の初版は明治三十一年十月。その冒頭、宇田川文海という大阪の新聞記者が序文を寄せている。

熊本県人尾藤新也氏は、旧細川家の門閥、尾藤家の支系であって、碌四百石を食むだ者、祖父は側用人を勤め、父は音楽の師範でありました、氏は幼にして 悟、夙に文武の両道に達し、特に音曲に巧みに講話に長じて、神童才子を以て称せられました、曾て小倉の役に軍に従って、人に優れた功を奏し、右の額に傷を蒙り、藩侯より太刀一口を賞せられ、維新の際にも戌辰の役に従軍して、諸所に転戦して軍功を顕はし、六年台湾の役には、熊本藩士三百を以て、壮兵十三大隊の編成あるや、氏は其下士と成て軍に従ひ、八年病を以て家に帰りましたが、其後其音曲に巧にして、講話に長ずるの才芸を利用して、普通講談の外別に一派を開き、重に忠孝義勇の称す可き歴史上の事実を演じ、加ふるに音曲を以てして、全国に歴遊して之を其都邑に試みましたが、到る所喝采を博して、名声頓み揚りました、」

これに気を良くした彼は、儲けた財産を投じて尾藤育英会を作ったという。このあたりの社会的責任の自覚などはいかにも元士族のものだ。そして、明治二七年、日清戦争が起こると戦争終結を待って帰還してきた各師団を回って戦争体験を聞き取りしてゆき、それを講談として舞台にかけた。聞き取りの対象となったのが兵隊たちではなく将校だったというあたりが当時の日本の軍隊のリテラシーのありようやそれに規定される階級のあり方を投影していて興味深い。で、これが大当たり。地元九州はもとより西日本一帯にその名声は及び、大阪にまで遠征して興行して回ったらしい。

「氏当夏当地に来り、道頓堀浪華座に於て、其得意の日清戦争談を講演しましたが、時恰も盛暑の侯に属して、日々九十度以上の酷熱なるに拘はらず、夜々千人以上の聴衆を得手、希有の喝采を博し、又当師団の兵を請して、其講談を演じたる篤志を称され、銀盃を贈らるゝの栄をさへ得ました。」

原田東洲という人も、第二編の方にこんな序文を寄せている。

「日清戦役の終るや、美当一調氏親く各師団を歴訪して、戦争当時の状況を調べ、之を講談に上せしに、聴者雲集、歓呼喝采して迎へさるはなく、其状況するに及ては、各親王殿下の清聴に達し、且つは沿道軍隊の歓待を受け、賜ふ所の銀盃十余個に到る、亦た至栄と謂ふへし。是れ其講談の俗流に抜て、軍事教育として一種道義の感念を與ふることの、深く且つ多きを以てなり。銀盃下賜の栄を負ふ豈偶然ならむや。」

つまり彼は、インタヴューして取材して回った戦争体験談をもとに語りものとしての色づけや脚色を施して、誰の耳にもわかりやすくした戦争報道をやったわけだ。今で言えばワイドショー的なものと考えていいだろう。もちろん、その戦争談の中身はというと、今のわれわれの感覚からすれば何とも大時代なものでしかない。だが、「日本」というイメージがそれまでよりはるかに広い層の人々に共有され始めていったごく初期のこと、たとえばそこに登場してくる清国の将軍や兵隊たちの描かれ方は、そのように形成され始めた「日本」という意識にとっての「外国」がどのような距離感や違和感と共にイメージされていたのかを考える上でも興味深い。


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同じ頃、東京を食いつめて九州に都落ちしてきていた桃中軒雲右衛門が、宮崎滔天や福本日南といった当時の知識人たちの知偶を得て新たな浪曲を作り出そうとしていた。いや、まだ「浪曲」というもの言いはない。浪花節であり、うかれ節であり、ちょんがれであり、九州界隈ではそれこそ軍談語りだった。雲右衛門というのはそれまで寄席にも入ることのできない乞食芸に等しいような下層の芸能だった浪曲を、一気に権威づけ、大衆的な人気を獲得してゆく重要な立役者となったひとりだ。僕は、浪曲史上の矢沢永吉だと言っている。彼が、まわりの知識人たちの協力を得ながらそれまでの浪曲からは考えられなかった格調高い文語体の台本による「義士伝」の上演を整えてゆく際、美当一調のこの日清戦争談が大きな影響を与えたと言われている。
だが、具体的にこの美当一調の語りの何が、どのように当時の人たちにとって魅力だったのか。速記ではあるけれども、しかし速記がそのまま上演の言葉の引き移しであった保証もない。何より、声の調子やテンポといった部分はいくら速記でもわからない。
ならば、録音ならばどうか。雲右衛門の録音はいくつか残っているけれども、美当一調の録音が果たして残っているものかどうか。ジャズやブルースの研究ならば、プライベートなものも含めてこれまで録音された音源の整理がまず研究の前提作業として行なわれてきているけれども、浪曲となるとその前提作業すらほとんど手がつけられていない。コロムビアやテイチクといった現存するレコード会社が持っているマスター音源の全貌を知ろうとすることはもちろんだけれども、かつてのSP盤なども含めた「録音された」浪曲の上演が現在どれくらい存在しているのかについての情報もまた、自前で収集して整理してゆかねばならない。そのためには、これまでの巷のコレクターやマニアや研究家たちのささやかな努力を掘り起こし、つむぎ直す必要がある。これまでのすでにひからびたかのような「歴史」に違う奥行きと輝きを与える作業は、そういう編集者的知性、良い意味でのコーディネーター的運動神経と共に立ち上がるものだったりするのだ。