なぜ、「家族」がそんなに気になるの?

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 「今、家族はどう描かれているか」というのが、ひとまず与えられたお題であります。

 もちろん、ここは『海燕』というお座敷でありますからして、これには「今の日本のブンガクにおいて」という限定条件が暗黙のうちについていたりするわけです。

 ただ、それじゃ今どきあまりに窮屈だし、何よりそんなブンガクなんてものに門外漢の小生としては仕事がし辛いので、ここは勝手に拡大解釈させてもらって、まあ、広い意味での表現一般にしましょう。いきなり美術だのアートだのの方面とまではいかなくても、少なくとも文字による表現だけでなく、たとえばマンガや音楽や映画などのジャンルもゆるやかに含みながら同時代のものとしてそこにあるはずの、リニアーな“おはなし”の枠を最低限持とうとする表現一般。とりあえず、その程度のことにさせてもらいます。

 だとすれば、次にはこんな問いが僕の中で立ち上がってきます。今のこの国のそのような表現の中で、まずもって「家族」がそんなに重要なモティーフなりテーマなりとして認められているんでしょうか。

  いや、おそらく小説の、女性作家たちのある部分、それも比較的若い世代の作品の中にそのような「家族」が中心となっているものが少なくないらしい、それは仄聞も含めてひとまず理解できます。そしてそれらが、批評も含めた二次的三次的な言及の構造の中である「問題」として自明のものになってゆき、権威化してゆく過程もまた現実だろうと思います。そうだ、「家族」こそが現代ブンガクの重要なテーマなのだ、とうっかり思えてしまう構造の発生と発展、そして自明化。

 だからこそ、もう一度素朴に問うてみたい。本当に「家族」って、今のこの国の表現にとってそんなに問題にされているんでしょうか。


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 現実の話をしましょう。

 今のこの国の社会では「家族」がたとえ約束ごととしてでも維持できなくなった、ということは、学者であれ評論家であれ、さまざまな立場の人間がさまざまな言葉で語っていることです。

 食べてゆくためのカネを家族の外から持ってくる父親がいて、女子供はそのカネによって生活を保証される。「家族」という約束ごとの維持を土台から支えていた条件とはそのようなものです。

 でも、「豊かさ」はその経済的な庇護からそれぞれが勝手にうっかりと独立し始める契機を与えました。家庭の中で食事の共同性が解体してゆく過程と、パートやアルバイトによって家族の構成員それぞれが独自に処分可能なカネが確保されてゆく過程とは相関関係があるはずと僕はにらんでいます。さらにそれは消費市場へと向かう欲望の宿る単位を個人へと分解してゆく過程とも連動していたはずなのですが、ともあれ、そのようにそれぞれが「家族」という約束ごとから離脱してゆく過程が高度経済成長期以降、これまでになく普遍的なものになっていった。

 そのような中、ものを書く、何かを表現しようと思う、そういう意志が宿り得る条件というものが「豊かさ」の中でそれまで考えられなかったような広がりを獲得するようになった。誰もがうっかりと何かを表現したいと思えるようになり、その表現意欲がどういう形を求めてゆくのかもまたさまざまな方向があり得るようになった。

 そんな流れの中で、敢えてなお文字で何かを表現しようとするような性癖を持った人々が抱え込んでしまうような屈託の仕方が、「家族」の問題という方向に解釈しやすい表現につながってゆくものだったりするらしい。うまく言えないのですが、僕にはそんな印象が強い。

 よろしい。仮りに「家族」の解体状況というのがそのように事実だとしましょう。現に、その認識には僕も基本的に異論はありません。

 しかし、その同じ解体状況をどのように感じ、解釈し、意味づけてゆくのかについての方向性というのは、人間の行なう社会的表現である以上、ある幅があって然るべきなはずです。現に、小説や批評といった文字による表現以外、たとえばマンガなどのジャンルにおいては、形式や脈絡に違いはあれ、解体でなくかえってそのような親密な、言わば「家族」的な人間関係の復権を中心に据えた表現が決して珍しくありません。それは確かにある種陳腐なものであり、文字を読みたがるような人々の性癖にはなじまないようなものであり、何よりそういう表現こそ「家族」の解体状況が現実に進行しているがゆえの反作用かも知れないけれども、しかし一方で、そのような「家族」の解体状況を“父性の喪失”とか“価値観の多様化”とか“個人の自立”といった要素でことさらにとらえたがるような感性というのが少なくとも文字の表現に向かう人々に特徴的であるかも知れない、という問いも敢えて留保しておいても悪くない。

 わかりやすく言いましょう。どうしてあんたたちってそんなに何もかも「家族」の問題として語りたがるわけ、ということです。


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 こういう問いを前提としてまず共有しようとした上で、初めて「家族」の問題は語り、論じるに足るだけの下ごしらえがされたことになります。本当の問題はここからです。

 「家族」というもの言いで表現されようとするモティーフなりテーマなりは、言い換えれば、ここが自分のゼロポイントだ、と思える場所なり関係だったりします。逃げられない場所。それがどんなものであれひとまず身体を張って引き受けざるを得ない関係。その限りで、「家族」が解体したと言われる状況とは、とりもなおさず「自分」という存在が依拠するゼロポイントが見失われた事態でもあります。
 
 「自分」の足場とは、かつてはひとまず地縁血縁だった。それが全てではないにせよ、少なくとも一般的にわかりやすいものさしではあった。だからこそ約束ごとになっていたのだけれど、でも、その約束ごとさえもなかったことにしていいということになった「豊かさ」の結果として、「自分」は輪郭をみるみるぼやけたものにしてゆき、その上に獲得されることが期待されていた「個」はなおのこと行方不明にならざるを得なかった。

 今の日本人というのはもしかしたら、さまざまな社会的関係の中で、夫婦や恋人といったセクシュアリティがからむ個体同士の関係においてこそ、一番安心して「個」でいられるのかも知れない、と思ったりします。もちろん、これは皮肉を込めて言っています。性的存在としての「自分」というのが「個」になってゆく時の最初の契機になり得るというのは一般的にそうだろうとは思いますが、でも、その性的存在としての「自分」があらゆる社会的しがらみから自由なところで浮遊しているわけでもない。「家族」なり何なりのしがらみの中で必然的に生じてくる抵抗や、その結果としての発熱や軋轢を確実に「自分」に投げ返しながら、「自分」の内側の性的存在としての部分を凝視し「個」の造形へと整えてゆく可塑剤にしてゆくわけで、でないと、セクシュアリティでさえも束縛から放り出されたある閉じた関係性の内側でしか表現に向かって開いてゆけないものになってゆく。

 それが証拠に、こういうレベルで「家族」がモティーフになっている類の小説って、とんでもなく艶っぽかったり、ゾクッときたりするものってまずないじゃないですか。けれども、それを安心として感じることのできる感覚というのも、また無視できない程度には今のこの国の現実になっているらしい。

 それらは全て、当然のことながら、今なおそのような場所や関係にからみつかれながら〈いま・ここ〉に立っている「自分」のあり方とも関わってきます。で、難儀な問題は、今のこの状況で本来は逃げられない現実から勝手に放り出されたままらしいこの「自分」とは、果たしてかつて渇望されていたような「個」なのだろうか、ということです。

 これまではねっとりと足とられるような呪縛でしかなかった「ムラ」や「家族」が、そんな地縁血縁が解体し、みんながそれぞれ屹立した自由な「個」としてそれぞれが新たに出発するんだ、というのが本当ならばそれはそれかも知れないのですが、こちらが不勉強なせいかそういう類いの表現に素晴らしいものに出くわしたことがありません。少なくとも今の日本に生きている自分の感覚に引き当てながら考えてみても、それはあまりに手ざわりに乏しい。古典的な「個」の自立の物語を「家族」に対抗させるのには無理がある。

 と言って、その解体状況の中でのたうちまわりながら“新しいリアル”だの“世紀末の正義”だのを手前勝手に夢見て元気を出そうとする表現も、その心意気は痛いほどわかるにせよ、もはやそれだけではやりきれないものになっている。むしろこちらに針が振れてしまいがちな人たちの感覚には、古いもの言いを持ち出せば“欠損家庭”や、素朴に言って尋常ならざる状況にある家庭を露悪的に取り上げた表現に焦点を合わせ、ことさらに「家族」の問題に丸めこんで取り扱おうとする傾向があるように思えます。そのように描かざるを得ない切実さが書き手の側にあり、その切実さとなだらかに連なり得るような感覚の共同性がある読み手の範囲に共有されているということは言えるのだとしても、社会的な力を伴った表現の可能性を責任と共に考えるならば、そのある意味では幸せな円環構造を食い破るような内実を表現に持たせることもまた同等に必要なのではないでしょうか。

 「家族」に拘泥するある種の作家たちというのは、僕の眼からは何かそういう円環の内側に向かってだけものを書いているような印象さえある。もちろん、その向かった内側でだけものを読むような読者の性癖というのもすでにある程度一般的なものになっていたりする。言わば相互に自惚れ鏡なわけで、その合わせ鏡の向う側に広がっているはずの同時代に向かって開いてゆくような契機がその円環の内側から自発的に宿ることはあまりなさそうに思えます。ならば、何も書き手の側でなくていい、読み手の側、もっと言えばあるべき責任ある批評の側から、ケツひっぱたいてでもその眠っている可能性を引きずり出してゆくような姿勢が欲しいと思うのは、やはり門外漢の勝手な言い分なんでしょうか。

*1:海燕』なんかで仕事しとったんだ……きれいに忘れとった(´・ω・`) ※170708