飯野賢治さん 後編 

  今、最も注目されているゲームソフト会社ワープの若社長、飯野賢次さんであります。意外にもコンピューターよりも音楽、それもビートルズからYMOにハマった妙な小学生だった生い立ちの続きから、はいどうぞ。

飯野 最初はシンセサイザー買おうと思って御茶ノ水へ行ったんですけど、六〇万円もするんでとても買えない。万引きしようにも重くてできない(笑)。どうしようと思ったんですが、どうもコンピューターが自動演奏しているらしいと聞いて、ならばコンピューターってのを買えばシンセサイザーが弾けるんじゃないかと思ってPC8801を買ったんです。これはテレビにつながる優秀なパソコンで当時の新製品でね。最初は「ライディーン」とかやって喜んでたんですけど、いじってるうちにプログラム覚えちゃったんですよ。それからゲームを作ったりしているうちに友達や偉い大人たちも来るようになって、優越感にひたるようになったんですね。まわりが馬鹿に見えた。なにしろ習字で好きな言葉は「過信」って書く小学生でしたから(笑)。
――ひどいね、そりゃ(笑)。
飯野 NHKのプログラムコンテストってのがあって、これに出そうと思ってアドベンチャーソフトを作ったらできちゃって、しかも何十万円か賞金もらっちゃった。そこから先はもう学校なんか行かないでプログラムする状態になって、こりゃまずいと思ってそれからはもうほとんどコンピューターをさわらなくなっちゃった。僕ね、小学校の時から定期持ってて東京にはよく通ってたんです。東武伊勢崎線は地下鉄日比谷線に乗り入れてたんで秋葉原まで直通だったんですね。だから、上野・秋葉原が当時僕の最高の『スタンド・バイ・ミー』で、これがもしも渋谷が沿線にあったら僕は今頃渋谷系ですよ(笑)。
――でも、ギターには行かなかった?
飯野 そうなんだよねえ。なんでギターに行かなかったんだろう。その後、高校二年で退学して大検もナメてかかって失敗して、近所でも噂になってきたから就職するしかなくなったのね。僕の得意なことはやっぱりコンピューターしかないと思って小学校の頃もらった賞状持ってちっちゃいゲームソフトの会社に行ったら入れたんだけど、初日でMS−DOSのコンピューターがいじれないのがバレちゃって(笑)。企画とシナリオならできますよって言ってそういう仕事をするようになった。――それがいつのことですか。
飯野 十九の時だから八九年。社長は、昔北海道かどこかのパソコン会社にいていい目をしたんで俺も、って会社始めたようなインチキオヤジで、もうバブル臭プンプン。それも国友やすゆきのマンガにも出てこないようなレベルの低いやつ(笑)。接待連れてかれて「はあ、大人の世界ってこういうことか」と思いましたね。でも、仕事は儲かってた。人が増えてって、飯野君の机は今日からこれね、って画板もらったことがあるもん(笑)。それに思ったより自由で、こういうゲームを作らなきゃダメだ、みたいなことは言われなかった。それはよかったんだけど、給料が低かったのね。だから、そこをやめて仲間と会社作ったんですよ。
――独立したわけだ、でも、その時はこんな風になると思ってましたか。
飯野 全然。僕、会社の事務所作るとか定款を書くとか、そういうのが好きなんですね。でも、会社作る時に定款の「款」の字書けなくて書類出した弁護士事務所で呆れられたけど(笑)。
――外国でもゲーム産業ってのはおおむねこういう状態なんですか。
飯野 外国ってのはパソコン市場が大部分ですからゲームも個々の作家性しかなくて、むしろ日本のような工業製品としてのゲームはいきなり出てきにくいんです。たとえば、向こうの展示会なんて日本のオモチャのショウと違って、才能のある作家が自分の作品を展示してそれを見た資本が投資をするという形なんですね。
――ああ、カネを出してくれる旦那を見つけるわけだ。
飯野 そう。ストリートのパフォーマンスと同じなんですよ。

 社員の平均年齢およそ二七歳。ほとんどが口コミで採用した社員だという。今のワープに一番足りないものは、と尋ねると即座に「時間」と答える。大企業になるつもりはない。創造的な仕事ができるならば自分の儲けはなくてもいい、とまで言い切る。個人的に好きなゲームは、以前ナムコから出た「ワギャンランド」と「テトリス」の由。映画も大好きだが、ビデオでは見ないで映画館で見る。この馬力と“親方”ノリとで、さて、どこまでやってゆけるか。間違いなく突出した才能ではあるはずのこの若い衆の将来は、ちと気にして見ておきたいと思った。

 さて、唐突ですがこの連載、今回で終わらせていただきます。半年ほどの短い間でしたが、ご愛読いただいた(らしい)まだ見ぬ読者の方々にこの場を借りてお礼を申し上げます。
 でも、今のコンピューター文化ってやっぱりこのままだとヤバいよ。プラグを抜いて速度を落として身と心を守る知恵が必要。そして、今の日本人のユーザーの中にはそういう前向きな賢さも宿っているはず、と信じています。 ともあれ、ありがとうございました。ご縁があればまたどこかでお会いしましょう。