「テロ」ってどういうもの?

 年末からずっと騒ぎになってるペルーの日本大使公邸人質事件(どうでもいいけどこの単語、ひとまとまりでもう耳タコになっちゃいましたよね)。大事件なのは間違いないけど、でも、僕の中には、あれって本当に「テロ」なの?という疑問がどこかにある。

 だって、みんな気楽に「テロ」って言いつのってる割には、じゃあ「テロ」って何なの、と尋ねられたら、実はほとんどの人がうまく説明できないんじゃないだろうか。なんか漠然と「いきなり暴力を使って自分たちの主張をゴリ押ししようとすること」てな程度の理解でしかない。いや、別に政治学とかの難しい定義じゃなくていいんですけどね。ひと昔前なら「日本人の中のテロリズムの系譜」なんてテーマが雑誌の特集に取り上げられたりしてたもんだけど、今やそんな発想はどこにもない。「テロ」というもの言い自体に手ざわりが薄いのだ。

 当初、専門家が「これがセンドロ・ルミノソ(現地のもうひとつの左翼ゲリラ組織)ならば突入した瞬間に全員射殺していたはず」なんて言ってたけど、きっとそうなんだろう。むしろあのトゥパック・アマルって連中には、「力」を抑制する意志とその向う側に冷静な「政治」の気配が濃厚に感じられる。ただ、そのかけひきの道具としての「テロ」ってあたりの手ざわりが、高度経済成長の「豊かさ」のまっ只中で育ってきた僕には情けないがピンとこない。

 実際、あのゲリラたちはすげえ緊張の持続を強いられてるんだろうなあ、と思う。相手のペルー政府にしたところでいつテロ対策のプロたちを強行突入させるかわからないわけだし、事件の当初は要請次第でアメリカその他の外国の特殊部隊だって出てきかねない気配だった。いかに人質と刺し違える覚悟ができているにしても、そういう「世界を敵に回す」ことの緊張というのも、やはりわれら戦後民主主義育ちのニッポン人には想像を絶するものがある。

 こういう仮説は不謹慎かも知れないけど、これが日本人ゲリラだったらきっと辛抱たまらず派手に死に急ぐのが出てくるんじゃないだろうか。それこそ神風特攻隊みたいに。かつてのテルアビブでの日本赤軍なんかそうだった。みんな忘れちまってるようだけど、少し前までわがニッポンってのは世界に冠たる「テロ」の輸出元でもあったんですよね。 死ぬ覚悟があるということと、やたら死に急ぐこととは全く違う。そういう「政治」の緊張の中で「死」と天秤かけたかけひきに頑張り続けるような覚悟がそこにあるって現実にうまくなじめないのは何もわれわれだけじゃなくて、現場のカメラマンも人質も、ニッポン人である以上似たようなものなのかも知れないなあ、などとついいらぬことを考えてしまうのであります。