重油汚染の報道風景

 日本海沿岸でのロシア船籍タンカーからの重油流出事故の報道のされ方が、なんか釈然としない。特にテレビの報道がだ。言っちゃ悪いけど、天気予報よろしく流出した重油の移動予報を毎日やり続け、それ以外は重油にまみれた海鳥救助の話とボランティアの話でひたすらつないでゆくばかり。新聞報道だとここまで移動予報と海鳥とボランティアで引っ張るには無理があるわけで、この事態もまさに「絵になる」ことが優先されるテレビというメディアの報道の本質と関わっている。「絵になる」ことが優先されるのがいけないとは思わない。ただ、そういうタチのメディアであるテレビだからこそ、もっと他に報道するべき「絵」だってあるはず、とついつい思ってしまうのだ。

 言うまでもなくボランティアの人たちの努力は尊い。あの厳寒の日本海沿岸で手作業で重油をすくうのは並大抵ではない。阪神大震災の時もそうだったけれども、ひとまず理屈抜き、単純な人手という意味でボランティアの効用というのはあるのだし、それは初発の現場においてこそ効果が高い。ただ、その一方では自衛隊なんか年がら年中そういう「災害出動」を「仕事」としてやっているわけで、なのにそれがメディアの「絵」として正面からとりあげられる機会は今でも決して多いとは言えない。何より、ボランティアが死んだら大ニュースになってるけど、自衛隊員が死んだら、さて、どうだろう。

 とすれば、そういう自衛隊なり地元の消防団なり漁師さんたちなり、いずれ「仕事」がらみの当事者として作業をしている人たちと、本来は何の関係もない第三者として現地にやってきて作業しているボランティアの人たちとがどういう風に連携しているのかいないのか、そのあたりを僕なんかはとても知りたい。そういう当事者と第三者の連携のありようを葛藤やズレも含めてじっと凝視してみることこそが、良くも悪くも今のわれわれの「市民」意識を測るものさしになるはずなのだ。

 思えば、重油まみれの海鳥という「絵」は、あの湾岸戦争の時、世界中に配信されて有名になった。後にあれはアメリカ側の「やらせ」だったと言われたけれども、あの写真が「絵」として与えたインパクトというのはかなり大きいものだったのだろう。今回どのテレビ局のカメラもやたらと汚れた海鳥の「絵」を拾っているように感じるのも、あの湾岸戦争の時の「正義」の記憶がメディアの現場のどこかに刷り込まれているのかも知れないと思ったりする。

 考え過ぎだ、って? だったらいいんだけどね。まあ、今回はニュースキャスターたちがわれ先に「現場」に飛んでゆく、あのあさましい姿がなかったのだけは救いではありました。やっぱり寒いのか。