活字の本領、この状況でなお――稲垣尚友『密林の中の書斎』(梟社) 永瀬唯『肉体のユートピア』(青弓社) 安原顕『ふざけんな人生』(ジャパンミックス) 『日曜研究家』

 紙の上に刷り込まれた活字によりかかりこの世のご正道から足踏み外す病いがある。その一方で、おのれの体験だけを後生大事になで回し続けてうっかり歳を食ってしまう無残もある。とかく知性ってやつはめんどくさい。

 ただ、いずれそのような活字を切実に読み書きすることで作られてきた自意識そのものが、今の世間ではかつてのように無条件で“エラい”もの、価値あるものとしてお眼こぼしされなくなってきている。「インテリ」だの「知識人」だのと言いならわされてきた人種などその最たるもの。能書きばかりで役立たずなことがつくづくバレちまってるのだ。さりとて、今さらそんな活字のしがらみから逃れようのない旧弊な活字世代の身の上、CDとコンピュータとビジュアル雑誌とで「自分」を編み上げてきた若い世代のようにかろやかに今の情報環境を泳いでみせる自信も体力もない。というわけで、暇を見つけて書店をそぞろ歩く愉しみも、以前のように無邪気なままでは昨今いられなくなった。

 けれども、そんな状況だからこそ、活字の書物には初刷二千部のささやかなメディアの本領を見失わない毅然としたものを求めてしまう。たとえば、稲垣尚友『密林の中の書斎』(梟社だ。ルポやノンフィクションが手前勝手な「正義」を背負い過ぎてどんどん鈍重になり、かたやその鈍重さから逃れようと無重量状態の呪文に淫していった手合いの頽廃もあり、いずれ現実は言葉とうまくつきあえないまま野放しになっている。そんな中、かつて若い時に訪れ棲みつき、そしてあるできごとによってそこから離れることになった南の小さな島へ再び戻ってかつての「自分」と今ある「自分」との間をつなぐ糸をほぐしてゆこうとするこの著者の営みは、前著『一七年目のトカラ・平島』(梟社よりさらに透徹したところに届き始めている。ドキュメンタリーでも学術論文でも紀行文でもエッセイでも小説でもない、思えば不思議な境地だけれども、ただ“読みもの”として心にしみる。 

 永瀬唯『肉体のヌートピア』(青弓社もいい。書店的な分類で言えば文芸批評、それもSFを素材とした評論と言っていいのだろうが、しかし、この著者の知性のありようは学校で習った知識の蓄積に依拠しているのでないことは明らかだ。からくりの文化史からロボットやサイボーグの系譜をたどり、その背景に横たわる精神と身体と想像力の関係の歴史を、しかしもっともらしい哲学用語や難解な翻訳語でなく、できるだけ“もの”に即した水準の言葉によって語ろうとしている。ただ「好き」であることだけをよすがにゆっくりと集められ、相互のつながりを自前で獲得していった情報系は、ある条件さえ整えばこんなにもみずみずしい新たな知性として羽化し得る。このような眼に見えない想像力の痕跡や意識のありようを紙の上に定着させてゆく手練手管は、他でもない活字のメディアにこそ分厚く蓄積されているはずなのだが、しかし、その豊かさに邂逅し瞠目する可能性さえ、電子メディアの獰猛さ任せの今の情報環境は封じ込め始めてはいないだろうか。

 思い出そう、活字には活字の正義があった。安原顕 『ふざけんな人生』(ジャパンミックス)は、名物編集者であり粋なエッセイストだった著者の回想録。「回想の五〇、六〇年代」という副題にある通り、昭和一四年生まれの著者がかすかな記憶をよびさましながら、活字の読み書きの上に「自分」の輪郭を整えていった過程をつづってゆく。と言ってこの著者のこと、お行儀のよい回想録になどなりようがない。あっちに話が飛び、こっちに憤り、時には古い日記の断片に翻弄され、微細な記憶の奔流に眼くらまされる。活字を読む、そのことにこれほど切実な時代があったことの証し。けれども、そんな八方破れこそが、この鈍重なメディアに敢えてつきあおうとする身にはたまらなく懐かしいのだ。 

 『日曜研究家』というささやかな雑誌も元気がいい。創刊時からひそかに眼をつけていたのだが、少しずつ中身が充実してきたのに伴い体裁も整ってきた。ほとんど個人誌に近い体制で編集されているようだけれども、かつての民俗学のまわりにもあった、そしてそれ以上にあらゆる巷の知性の前提を支えていた「道楽」の熱気はこういう場、こういう関,係の中にある部分は引き継がれているのだと思う。そう、活字というのはそういう「道楽」と密接な関わりを持ちながらこの世に場所を見つけていたのだ。