「歴史」がその輪郭を変えてゆく


「歴史」がその輪郭をみるみる変え始めています。この世紀が変わる頃までには、われわれ日本人にとっての「歴史」のありようは、少なくとも戦後半世紀の間共有してきたそれとはずいぶん違ったものになってゆくような気配が、良くも悪くも濃厚にあります。

 こう言ったからといって、何も輸入ものの金看板を振りかざして「歴史の終わり」などともっともらしくのたまうつもりはありません。もっと足もとの、その意味でははなはだカッコ良くも華々しくもない、しかしまごうかたないこのニッポンの話です。

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 いわゆる「教科書問題」が本格的に火の手をあげ始めたのは、去年の夏頃からでした。

 きっかけとなったのは、それまでも冷戦構造下の「保守」「右翼」系の論客の間で問題にされてきていたいわゆる「従軍慰安婦」記述の問題です。しかし、事態はその後、単にそれだけではすまない広がりをじわじわと見せるようになってゆきました。「自虐史観」というもの言いが持ち出されることによって、歴史の教科書の記述に典型的に現われ、思想や言論といった舞台に当たり前のように流通し、そしてまた見回せば新聞や雑誌、テレビといったメディアの舞台で当たり前のように語られている「歴史」の語られ方に対する違和感が、一気にある形を獲得し始めているように思えます。それは、それまでも「東京裁判史観」「YP(ヤルタ・ポツダム)体制史観」といったもの言いによって一部で批判されてきたものであるということは言えますが、しかし、その共感の広がりは冷戦構造下の「右翼」対「左翼」、「保守」対「革新」「リベラル」といった図式を超えたところにまで波及し始めている。それがこれまでとは大きな違いだと言えるでしょう。

 冷戦構造がまだ生きていた時代からそのような「東京裁判史観」「YP体制史観」の見直しを主張してきた狭い意味での「保守」系論客たちの仕事は、彼ら自身の自覚のあるなしとはひとまず別に、それらの仕事を規定していた冷戦構造が崩壊した後の状況において、どのように今ある「歴史」が作られてきたのかについての考察を期せずして始めてしまっていたことになりました。そのように意味あいを変えた既存の「保守」系論客たちとの距離の取り方を、冷戦構造下から連続している言論や思想の舞台に立つ人たちがまだうまく発見できていないというのが現状だと思います。実体のはっきりしない「右翼」というもの言いがひとり歩きする「右翼」陰謀史観の横行や、「ナショナリズム」を「民主主義」と対置して排除しようとするような発作的な動きなどは、そのように「歴史」がこれまでと違った文脈の中で改めて位置づけられねばならない状況に対応した、言わば痙攣のようなものかも知れない。

 「日本」を主語で語ることをしないですんできた、しかしこれからはそのままではうまくやりすごせないらしい、そういう漠然とした落ち着かなさが予想以上に広い層にまで浸透していた。そして、その落ち着かなさに言葉を与え、何らかの“おはなし”の器に盛りつけるといった作業は、どうやらどのような立場からもうまくなされていないままだったらしい。みすぼらしくやせ細ってしまった「文学」というもの言いにまだ多少とも希望を持つことができるのだとしたら、このような状況に対して背筋伸ばしてまっすぐに向かいあう心意気を育てようとすることから始まるのではないか、と僕などは思ってしまいます。

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 まずはっきりさせましょう。もともと「歴史」というのはその社会、その時代の情報環境に規定されてしかありようのないリアリティの水準であり、その限りにおいて“おはなし”です。

 このように言うと、こういう考え方そのものに違和感を持つ人もいると思います。しかし、その違和感そのものが、われわれのリアリティの背後にある情報環境を意識化しにくいがゆえのものだということに、そういう人たちはうまく気づいてくれないのが常です。その意味で、こういう違和感の有無は言葉と現実の関係についての認識の前提の違いに根ざしている部分が大きいようです。

 たとえば、好むと好まざるとに関わらず文字の伝統の薄い社会の歴史を考えざるをえなかった文化人類学者たちなどは、人間と「歴史」のそのような関係についておそらく最も鋭く意識せざるを得なかった。少なくとも、明治以降の日本の歴史学者たちが考えてきたような意味でのリジッドな「歴史」のありようの方こそが、むしろ世界史的に見れば奇妙なものだったかも知れない。奇妙というのが言い過ぎならば、東アジアの漢字文化圏においてある程度のリテラシーが比較的早い時期から社会の中に当たり前に浸透していた文化であるがゆえの文字志向型の「歴史」であった、という程度に限定的なものと言い換えてもいいでしょう。

 そのように考えてゆけば、「歴史」の比較文化論、といったこれまであまり手のつけられていない研究分野も将来はあり得るかも知れません。しかし、それは従来の東西交流史とか文明史といった領域のように、ある「歴史」のありようを自明のものとしてその自分たちの自明性の内側でしか考えようとしなかったものとも違う。「歴史」という“おはなし”がそれぞれの国、それぞれの社会の情報環境の生成過程にからまってつくられてきているという前提に立った、ある意味では言葉とメディアの比較文化論でもあるような分野です。

 ことのついでにいささか大風呂敷を広げるならば、それは今あるものよりもっともっと広い意味での「文学」の比較文化論となだらかに連なってゆくようなものでもあるはずです。近年いつの間にか流通してしまった「表象」というあのけったいなもの言いを使うならば、「比較表象文化論」といったものにでもなるのでしょう。言葉と意味の磁場に規定される営みやその働きについて考えようとすることは、全てそのような意味での「文学」に関わる批評や考察なのだと思います。

 いずれにせよ、そのように文字志向型の「歴史」がスタンダードとして形成されてきた経緯があるせいなのか、「文学」と「歴史」といった二項対立がわが国の歴史学のある部分には未だ根強くあるように見受けられます。そして、その根強さの理由についてもある程度理解はできなくない。しかし、それは言い換えれば「文学」と「科学」の二項対立のアナロジーに過ぎません。ごくおおざっぱに言ってそれは、「歴史」が「科学」であるという信心の上に立たないことには戦後の歴史学は戦前の皇国史観のうしろめたさから逃れられなかった、という時代的条件のなせるわざでもあったわけです。

 逆に言えばこれは、「文学」は「科学」ではない、というイデオロギーの生成に力を貸したことにもなります。そして、この分割統治の呪縛は「文学」と「科学」の双方に未だに根強く尾を引いているところがあります。

 たとえば、歴史叙述の問題を語る場合でも、「文学」的な色彩を「科学」の中に取り込もうとすることをどう正当化するかに腐心するのが、歴史学者のこれまでの定石になっているように見受けられます。これは民俗学文化人類学社会学といった方面でのエスノグラフィーや民俗誌の議論のありようなどとも全く共通しているわけですが、いずれにせよ、「科学」であることを最も表層で規定してきた「論」という形式に収まり切れないような文体をどのように「科学」の規範に対して合法的に、しかし同時にそれでもなお「科学」であることを主張できるような都合の良い足場を発見してゆくのか、といったことについて、このように面倒くさい迂回路をとらなくてはならない状況そのものが、わが国の人間と社会についての学問のありようを考える上でのいい素材だと僕などは思っています。それは、さらに意地の悪い見方をすれば、「文学」ならば大学に代表されるような知的な職場の地位は保証されにくいけれども「科学」と言えば何とか格好がつく、といったミもフタもない世渡り事情にも規定されているのかも知れません。それは同時に、「文学」が戦後の市民生活の中でタテマエとしての一般教養としての意味を持っていった過程とも連動しているはずです。

 履歴書の「趣味」の欄には「読書」と書くのが作法となっていった時代。そう書いて、そのことがとりたててネガティブな意味を付与されないですむようになっていった時代。女子大や短大の「文学科」で教えられる「文学」が、それが国文であれ英文であれ、無難な一般教養の代表として語られていった時代。そのような時代のありようを背景に考えてみれば、大学の中で「文学」を専門とする人たちの身の守り方、「科学」の演じ方といったものにも、すでにある歴史性がまつわり始めているように僕は思っています。

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 ともあれ、思い切りひと筆描きに言ってしまえば、わがニッポンの学問には言葉についてのパースペクティヴが欠落していたということなのかも知れません。

 他ならぬ自分たちが関与し、対面し、取り扱う現実というのはあくまでも言葉と意味の磁場において存在しているという認識が、良くも悪くもそう明確にあったわけではないらしい。逆説的な言い方になりますが、そのような欠落があったからこそ、文書についてはその資料批判の文脈が発達したのかも知れない。つまり、文書を文字以外のオーラルな言葉の水準との関係から多面的に考えるよりも、「書かれたもの」であるということを葵の印籠にしながら考えることによって、その書かれていることの中身についての批判をある限られた幅においてのみ尖鋭化させ、精密化させていった。だから、その手続きそのものの正当性に対する疑いは、結果として限られてこざるを得ない。もっとも、そのような言わばメタ・レベルでの問いかけは、ある言語空間の内側で常に保証されるわけでもないのでしょうが、しかし、このような考え方からは、ものを考える手続きも「真実」というひとつの「正解」に向かってだけ体系が整えられてゆくしかありません。たとえば、偽書の資料的価値などということは最近になって若い世代を中心にようやく声を大きくして言われようになってきたことで、それまでは「偽」であるということだけで価値の低い資料のようにだけ言うのが当たり前だった時期が長かった。つまり、「正」か「偽」か、ということが重要なのであり、その「偽」なら「偽」がどのように存在してきたのか、といったことについては「偽」であると判定された瞬間から眼が向けられなかったし、全く同じ意味で、「正」もその「正」の存在する文脈については考慮されにくくなっていた。

 そう考えてくると、日本人にとっての言葉がどのような意味を持ち、それが日本人にとっての世界の成り立ちとどのように関わっていると考えられてきたのか、ということが大きな問題になってきます。こういう問題は思想史や精神史といった領域の仕事になるのでしょうが、いずれにしてもこのような視点からの問いかけがこれから先、人間と社会について日本語を母語とする広がりの内側から語ってゆこうとする時に、前提として必要になってくる。

 とは言え、人間の考えることはそうそういきなり変わるはずもないわけで、これまでもそのような議論の芽はさまざまにあったはずなのですが、歴史学というのは良くも悪くも自分たちの作り上げた要塞の内側に閉じこもってきた学問の歴史があって、自分たちが自明の「歴史」の前提を疑ってかかるような視角は、よほどの例外を除いて出現することはなかったと言っていいようです。だから、文書を読み、その“読み”の領土の内側においてのみ歴史を構築すればひとまずそれでこと足りてきた。その外側に放り出された資料のありようや、異なる“読み”の可能性などについては、基本的に切り捨ててきて構わないようなものだったらしい。

 もちろん、「科学」とまで言わずとも、何らかの学問的手続きに従った言説の生産にはそのような制限が必ずつきまといます。そのこと自体は当然くぐらねばならない試練に違いない。けれども、その制限の内側で自分たちの作り出す歴史が存在していることについての自覚と、その自覚に立った開かれた認識を持とうとすることについて鈍感なままでいいということではないでしょう。「歴史家」というもの言いが、彼ら歴史学者の間で何か独特のプライドや差別意識と共にある神話のように共有されている様子は、たとえばある種のジャーナリストたちの間で「新聞記者」や「ルポライター」というもの言いが何かご神体のように取り扱われ、ありがたがられてきた経緯と、どこかよく似ているような気がします。

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 このような「歴史」の変貌期だからこそ、冒頭に述べたような意味での比較「歴史」学なんて領域が構想されないといけないのかも知れません。それは「歴史」のディスクールについての比較文化論と言い換えてもいい。これから先、日本の歴史学もそのように解体され、開かれてゆくことはある程度間違いないでしょう。いずれにせよ、情報環境に対する視線を介在させることで言葉と意味の磁場についての視野が入ってきて、その結果、社会の広がりもまた人々の意識の中において「どのように語られ、意識され、意味づけられていったか」という角度から構想される。最近、一部の方々がありがたがっている「カルチュラル・スタディーズ」にしても、まあ、ぶっちゃけた話がそんな脈絡で改めて、日本語を母語とする広がりの中に意味づけられるようなものだと僕は思っています。そしてそれは、柳田国男が「心意伝承」というタームで示唆した人々の集合的心性に宿る「歴史」の水準に改めて接近してゆくことでもあります。

 民俗学というのは文字通りの意味では「フォークロアについての学問」なわけで、それは言い換えれば「語られたもの、伝えられてきたとされるものやことについて考えること」でもあります。必然的に、その語られた意味内容だけでなく、それがどのような状況でどのような理由で、どのような上演によって語られてきたかが同時に問題になる。言葉は意味をつむぎ出してゆく装置であることは間違いないにせよ、その装置はどこまでも生身の上演や“読み”の水準に規定されて存在せざるを得ないようなものでもある。その限りで、言葉は、言葉がそのような装置として成り立ち得る関係性と共に初めて、十全に言葉として存在し得るようなものでもある。

 言葉は、語られた状態において常になまものでしかありません。しかし、それは文字を媒介にして乾きもののテキストとして定着し得る。ところが、われわれは言葉をその乾きものとしてだけ取り扱おうとする性癖がどうやら強かったらしい。それだけ文字のテキストにまつわるある種の物神性は強固なものであり、その強固さによって言葉は文字のテキストという具体的な“もの”を介してのみ意識化できるようなものであり続けてもきた。

 とすれば、異なる情報環境における「歴史」の比較と同時に、「歴史」という意識が同じ日本語を母語とする共同性の内側でどのように移り変わりながら継承されてきたのか、という視点も提示される必要があります。空間的広がりにおける「異文化」と時間的広がりにおける「異文化」。もちろんその場合、文語と口語、漢文脈の教養の伝統とそれ以外の市井の話しことばの問題、印刷技術の普及とそれによる国民的リテラシーの変容、などなど、情報環境という角度から見た社会と文化の見方を前提にすることは言うまでもない。この場合も、「歴史」についての歴史を改めて総体として見つめ直してゆくような視線が必要になってきます。「歴史修正主義者」というもの言いは、少なくとも今の日本の言語空間では決してポジティヴな意味を付与されていませんが、この「リビジョニスト」というのをこのような脈絡で「見直しを主張する人々」とでも翻訳してみれば、またニュアンスは変わってくるかも知れない。

 「歴史の真実は容易に書き換えられるものではない」といった重々しいもの言いはすでにある形式と共に流通してきています。それは「歴史」に対するある倫理基準としてもちろん正しい。しかし、と同時に、その「真実」のありようは常に見直しをされてゆかねば「真実」であり続けることもできない。その程度にわれわれは言葉と意味の磁場に深く拘束されている動物であるらしい。それには、ゆるぎない「正解」を求めてのことではなくて、ある限られた時代条件の下でどれだけ妥当な“おはなし”であるかを確認しながら「真実」を考えてゆく、という意味が含まれてくる。となると、「歴史」と「政治」という問題も改めて浮上してくるのだし、その中でメディアの問題、情報環境の問題も意識化させてこざるを得なくなる。

 それは、「戦後」がようやく日本人の意識の中でもある終わりをつげ始めていることの現われです。この世紀の終わりとは、この国にとっては「戦後」がようやく「歴史」の脈絡で語られ直されるようになり得る、そんな過渡期のことのようです。