「久米調」の未来

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 テレビのニュース番組で、キャスターが何か事件を伝えたその後にちょろっと何かコメントをつける、というスタイルがあります。それはキャスター個人のコメントであるようで、しかし実はそうでもないようで、という微妙なあたりを一発で狙い撃ちするのがまさにキャスターとしての“芸”なんだろうと思う。

 そういうスタイルは、まさに『ニュースステーション』と久米宏サンが作り出したものだった。で、それは確かに「報道」一辺倒で真面目くさっていたニュースの堅苦しさを、言わば「芸能」の方へと開いてなじみやすくしていった。そのことを僕はすごいことだと思っているし、また、いつか誰かがやらなければならないことだったとさえ思っている。このへんは何かというと「久米宏調」を目の仇にする政治家や評論家のお歴々とは意見を全く異にする。

 ただ、その「久米宏調」がひと通り浸透し、堅苦しいばかりだった「ニュース」や「報道」の価値もちとゆき過ぎるくらいにまで相対化されちまった昨今、せっかくの「久米調」も逆に骨抜きされた形でだらしなく広まっているようなところもある。

 たとえば先日、例の動燃の事故の報道の時、とある夜のニュース番組で某女性キャスターがフリップ(説明用のボード)をカメラに向けて動燃が放射能漏れの発表データを計算違いをしていたことの説明をひと通りした後、最後に一言「こんな計算もできなくて原発を動かしているんだそうです」と、まさに正統「久米調」でつけ加えていた。

 この彼女は、他の番組でも自分が結婚していることをさりげなく示すことで「主婦の立場」をタテにとり、テレビを見ている同性たちに余計な反感を買わないように細心の注意を払っているのがふだんからよく見てとれるような、つまりそういうプロの匂いが良くも悪くもプンプンする人だ。それだけに、この「久米宏調」の余計なひとこともついうっかり本心を言ってしまった、てな代物でないだろうと思う。いや、仮りに本心だったとしても、そういうプロがテレビという舞台に敢えて乗せるという選択をする際には「この場でこういうもの言いをするのはきっとオッケー」という判断に乗っとった確信犯の部分が必ずあったはずだ。 だからこそ、この彼女の「久米調」には薄っぺらでいや~な感じだけが残った。

 いや、確かにあの動燃の一件は「こんな計算もできなくて原発を動かしているんだそうです」くらいの嫌味のひとつもつい言いたくなるひどい話ではある。にしても、だ。それをテレビのニュースという立場から「久米調」でこきおろしてすむ、そんな状況ではもうなくなっている。「久米調」自体が「そうやっていればオッケー」という型になっちまったんじゃ、そりゃあまりに浮かばれない。「久米宏調」が切り開いた〈それから先〉をどうやって考えてゆくか。テレビのニュースにはやっぱりそういう「責任」だってあるのだと、もう一度みんなして言い始めることもそろそろ必要なのかも知れない。

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*1:サンデー毎日』連載原稿